信じ続けるのはタフなこと
幼少期に適切な愛情やケアを受けることができなかった場合、また、養育者のような立場の人から強いショックや虐待などを受けると、人を信用することが難しくなるといった影響を大人になって表出することがあります。
普段は、なるべく人と親密になることを避け、本音を抑制し、自分の感情や感性を守ることができます。しかし、人に好意を持ち、相手と深い交流をしたいと思った場合、幼少期のトラウマは出現します。そのひとつに「相手を信じることができない」というものもあります。
肝心なところで裏切られる、おいてきぼりにされる、態度が豹変し攻撃を受ける、などの怖れからの予測をしがちです。
この物語に出てくる彼も、本来なら幸せを味わい、相手と親密に交流していくはずなのですが、ちょっとしたすれ違いから、過去のトラウマに支配されてしまいます。
この物語は、携帯電話が無かった頃の、相手との約束だけが頼りだった時のお話です。主人公である彼は、思いがけずに意中の女性とデートすることになりました。
猜疑心は人をパニックに陥れる
待ち合わせの約束当日、サイン会のあるお店の前。
彼は、少し早めに着きました。彼女を待つワクワク感は最高潮でした。
彼女の笑顔、仕草、言葉が、自分に向けられるのだと思うと、笑顔がこぼれてくるのでした。
はじめの言葉は何にしようか…。
ー約束の時間が少し過ぎました。
彼は彼女とのこれまでの日々を思い返します。
自分に自信がなく、いろいろな情報やモノで自分を実際以上に見せようとした自分のこと。
そんな自分とサヨナラできる瞬間が近づいてきている…、そんな期待を膨らませていました。
もう、あの頃の自分には戻らない。
きっと彼女との日々が僕を変えてくれる。
ー約束の時間から、30分が過ぎました。
どうしたんだろう?
何をしているんだろう?
約束の時間はとっくに過ぎているのに…
まだ、形にならないでいる心がざわつきだします。
ー約束の時間から、1時間が過ぎました。
こんなに待たせるなんて、どうかしている!
絶対に許さない!会ったら、強く言ってやる!
彼は怒りを感じながら、待ち続けます。
怒りで隠している不安や怖れを感じるのは、もう少し後になってからです。
ー結局、約束の時間から3時間が過ぎたとき、彼は待つことをやめます。
怒りは諦めになり、彼自身が感じていた想いが心をキツく締め付けます。
自分がこんなにうまくいくはずがない。
幸せがこんなに簡単に転がり込んでくるはずがない。
僕は裏切られやすい人間なんだ。
彼女はどうせ、僕をからかったんだ。
愛想よく、もの欲しそうに近寄ってくる男をからかったんだ。
ー今頃、笑っているに決まっている!
電話番号は会ったときに教えるなんて調子のいいことを!
手の込んだイタズラの出来に誇らしげに友人たちと笑っているに違いない!
何てたちの悪い女なんだ…、もう会いたくない…。
からかうのなら、他の男にしてくれよ…。
もう、二度と愛想よく、女性に近寄ったりするものか!
もう、女性なんて信じるものか!
裏切られても相手を信じたい自分がいる
次の日から、彼女がお店にやってくることはありませんでした。
しかし、それでも、彼は待ち続けました。
本当のことが知りたかったから。
やがて、冬が終わり、春が来る頃…
彼はその喫茶店を辞めます。
もう、彼女を待ち続けることが辛かったからです。
彼女を信じ続ける気力が、彼にはありませんでした。
裏切られたことにしてしまいたい。
いっそ、悪い女につかまったことにしてしまいたい。
それでもなお、彼女の笑顔を思い出しては、信じ続けたい自分がいることに気づきます。
その繰り返しに彼に疲れてしまったのでした。
裏切られた自分。
騙された自分。
そのレッテルを自分に貼ってしまったほうが楽だと思ってしまうのでした。
やっぱり、価値のない自分でいるほうが楽。
やっぱり、劣等感の中にいる自分のほうが自分らしい。
悲しいけど、そう考えているほうが、楽なんだ…。
信じ続けるのは苦しいから…。
もう、勘弁してよ。
…数年が経ち、彼はあまり過去のことを思い出さずに過ごしていました。
引越しもして、電話番号も変えてしまいました。
働いていたあのお店にも、辞めてから一度も立ち寄らなくなっていました。
なぜなら、あのお店に入ると、『彼女』を思い出してしまうから…。
しかし、ある日、お店に立ち寄ることを決意します。
昔の自分とサヨナラしようと思うのでした。
新しい扉を開こう…そう誓う彼でした。
「昔の自分と決別して、新しい人生を歩もう。」
それが、過去の扉とは、その時の彼は知るよしもありませんでした。