
「不登校」から「自由進学」へ 言葉を変えると世界が変わる
僕たち家族は長い間、「学校へ行かないこと」を「不登校」という言葉で表現してきました。(マーケティングとしては検索キーワードとして「不登校」は強い表現です。)
しかし、娘が中学生という多感な時期を迎える今、僕自身としては、この言葉を使うことに強い違和感を覚えるようになりました。それは、どこか「あるべき場所から欠落している」という否定的なニュアンスを含んでいるように思えるからです。
僕たちは今、「学校へ行けない」のではなく、自らの意志で「学校を選択しない学び方」を実践しています。これを「自由進学」や「ホームエデュケーション」と呼ぶとき、そこには不足ではなく、主体的な選択と豊かな可能性が宿らせると感じています。
大切なのは、社会が決めた枠組みに自分たちを無理やり当てはめることではなく、その子にとって最も安全で、最も才能が輝く環境を工夫して、創りあげていくことなのだろうと思います
「必要性」は「わからない」の先に現れる
最近、わが家で起きた象徴的な出来事があります。図形の面積を求める学習をしていた時のことです。公式を理解しようとする中で、娘は「あ、やっぱり九九が必要なんだ」ということに自ら気づきました。
世の中の多くの学習は「まず九九を完璧に覚えてから、問題を解く」という順序を強いるように思いますが、しかし、それでは「なぜそれを覚えるのか」という動機が欠落しがちです。
娘の場合は、面積という「解きたい謎」に直面し、その道具として九九の必要性を「発見」しました。「わからない」という壁にぶつかったからこそ、それを乗り越えるための学びが、自分事として腑に落ちたのだろうと思っています。納得が優先されるわけです。
「学びたいから、学ぶ」。このシンプルな知的欲求こそが、教育の原点であると再確認した瞬間でした。「教え込まれる学び」から「自ら求める学び」への転換とも言えるでしょうか。
信頼を土台にする学び「おどさない・つらない・命令しない」
家庭で共に学ぶ上で、僕が最も大切にしているルールがあります。
- おどさない(「やらないと将来困るよ」と不安を煽らない)
- ものでつらない(「できたら○○を買ってあげる」と対価で動かさない)
- 良い評価でつらない(「100点だから偉い」という外側の物差しを捨てる)
- 命令はしない(「やりなさい」という強制をしない)
- 一緒に解決する(「だから言ったでしょ?」と先回りしない)
これらはすべて、外側からのコントロールを排除するためのものです。人は不安や恐怖で動かされるとき、脳は防衛本能が働き、真の創造性は発揮されません。
「お父さんは、あなたが何を知っても、何ができなくても、あなたを愛している。」という全肯定と、その揺るぎない安心感という土台があって初めて、娘の心には「知りたい」という純粋な好奇心が芽生えてくると感じています。
感性を磨く国語の時間ー好きなフレーズが「言葉」になる
国語の学びも、教科書に縛られません。娘は自分の大好きな本の中から、心に響いたフレーズを抜き出し、そこにある漢字を書き記しています。
「覚えなければならない漢字」として接するのではなく、「大好きな世界を構成している大切なパーツ」として漢字に触れるとき、学びは喜びへと変わっていくようです。嬉々としてやっています。
さらに、その抜粋したフレーズや熟語を使って、親子で会話をする練習もしています。単なる暗記ではなく、自分の感情や考えを表現するための「生きた道具」として言葉を扱う。この「分かち合い」の時間こそが、彼女の語彙力だけでなく、表現する自信をも育んでいます。
「わからない」を味わい、祝福する関係
娘は以前、「学ぶことで、わからないことに対して動揺しなくなるね」と言いました。これは、心理的回復力が育っていくことを感じます。失敗があっても、行き止まりのように感じる状況でも、また、違う選択をして進む力です。
「わからない=恥ずかしい」ではなく、「わからない=これから知る楽しみ」だと捉えられる強さが育っていくでしょう。
父親である僕自身にない発想や、ユニークな解き方を娘が見せたとき、僕は一人の人間として心から驚き、敬意を表します。そこにあるのは、教える・教わるという上下関係ではなく、共に真理を探究し、お互いをサポートし合う「協働関係」です。我が家において、学ぶことは、お互いを深く知り、仲良くなるための最高のコミュニケーション手段なのです。
世界は学びで溢れている
「学校を選択しない学び方」は、閉じた世界ではありません。むしろ、自分にとっての安心安全を確保した上で、世界中のあらゆるものから学びを吸収する、非常にオープンで自由な生き方だと、日々思います。
もし今、既存の教育の枠組みの中で苦しんでいる親子さんがいたら、こう伝えたいです。
「学びの場所も方法も、自分たちで選んでいいんだよ。」と。
評価の鎖を解き放ち、親子で笑いながら「わからない」を楽しめるようになったとき、そこには自由で輝かしい未来が広がっています。その広がりは、知的好奇心とともにとまることがないでしょう。


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