マスターは東儀 宗介(とうぎ そうすけ)、かつて天使だった頃の名は、メネフィール (Menephiel)。
仕事帰りや週末に通う常連OKは、小鳥遊 紬(たかなし つむぎ)、28歳。中堅デザイン事務所のグラフィックデザイナー。
週末の午後、『刻詠珈琲店』の扉が勢いよく開いた。興奮した様子の紬が、大切そうに箱を抱えて入ってくる。宗介は、彼女のために、既にコーヒーの準備を始めていた。
「マスター!ついに買いました!妖精のオラクルカード!
絵柄がすごく可愛くて、見た瞬間『これだ!』って」
紬は嬉しそうにカードの箱をカウンターに置いた。
宗介は静かに頷き、ハンドドリップしたてのコーヒーを差し出す。
「よかったですね、ちゃんと呼ばれたカードに出会えたようで。」
「はい!でも、いざ引こうと思ったら、また迷っちゃって……。
カードって山札の一番上から引くのと、好きなところから抜くのと、どっちが正しいんですか?」
「どちらでもいいんですよ。」
宗介のあっさりとした答えに、紬は目を丸くした。
「えっ?でもネットには『上から引くのが基本』とか『途中から抜くと直感が働く』とか、いろいろ書いてあって……。」
宗介はゆっくりとカウンターを拭きながら話し始めた。
「コーヒーを淹れる時、僕は時々違う方法を試すんですけど、焙煎の具合を変えたり、挽き方を変えたり、ドリップの速度を変えたり、蒸らし時間を調整したり…。でも、どの方法でも、心を込めて淹れれば美味しいコーヒーになると思っています。」
「それとカードの引き方が、どう関係するんですか?」
「同じことですよ。大切なのは方法ではなくて、その方法を選ぶ紬さんの心の状態だと思います。」
宗介は古いカードデッキを取り出し、カウンターに置いた。
「山の一番上から引くという行為には、運命に身を委ねるという意味があります。今この瞬間、一番上にあるカードが紬さんに必要なメッセージだと信頼するということですね。それは宇宙の流れに従うということでもあります。」
「なんか神聖な感じがしますね。」
「そうですね、そう感じる人もいるでしょう。つまり、好きなところから引くというのは、自分の直感を信頼するということです。紬さんの手が自然に向かう場所に、君が必要とするカードがあるんです。それは内なる声に従うということでもあります。」
紬はカードの箱を見つめながら考え込んだ。
「どっちも意味があるんですね。余計に迷っちゃいます……。」
「わかります。迷いますよね、正解がどこかにあるような氣がして。」
宗介の声は穏やかだった。
「でも、どちらの方法を選んでも、紬さんに必要なカードは必ず君の手に来ます。なぜなら、カードが教えてくれるものは、既に君の中にある答えですから。」
「私の中にある答え?」
「そうです。カードは鏡のようなものだと感じてみるといいでしょう。紬さんの心の状態を映し出す鏡ですね。だから重要なのは引き方じゃなく、カードと向き合う時の君の心の在り方だと思います。」
宗介は焙煎したての豆を挽き、あらたに珈琲を淹れだした。そして、そのコーヒーポットを手に取り、紬に新しいカップに注いだ。
「たとえば、『どっちが正しいんだろう』と迷いながら引くと、その迷いがカードに現れます。でも『今の私に必要なメッセージをください』と心を定めて引けば、どんな引き方でも、必要なカードが紬さんのもとにやってきますよ。」
「じゃあ、引く前に心を整えることが大切なんですね?」
「その通り。ゆっくりと深呼吸をして、心を静めてみる。そして、紬さんが一番しっくりくる方法を選ぶ。それが君にとっての正解です。」
「私、いつも正解を求めすぎてるんですね……。」
「それはそうですよ。マルバツ教育を受けて、正しい答えを探すように訓練してきたわけですから。でも、実際、何かをする時に正解なんてありません。あるのは、紬さんにとって心地良い方法だけです。それは日によって変わってもいいんです。今日は上から引きたい気分、明日は真ん中から選びたい気分。それでいいんです。自分の気持ちに正直になることです。」
紬は深く息を吐いて、肩の力を抜いた。
「なんだか楽になりました。まず自分の心と向き合ってから、その時の気分で決めてみます。」
「そうですよ。それがいい。カードとの対話は、まず自分との対話から始まりますもの。」
紬は新しいカードの箱を愛おしそうに撫でた。初めてのリーディングへの期待と不安が入り混じった表情だったが、その瞳には確かな決意が宿っていた。
窓から差し込む午後の光が、カードの箱をきらきらと照らしている。
新しい対話が、今始まろうとしていた。
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