
学校という一律の枠組みから離れ、ホームスクールという安全な聖域(サンクチュアリ)を創ることで、娘が持つ固有の根っこを深く、自由に伸ばしていく作業なのだと感じます。大人になってその根ざした根っこが、この世界をよりしなやかに生きていくのに役立つでしょう。
「常識」という名の揺り籠を離れて
今週、僕は娘と共に、小学校と、今春入学を控えた中学校の2箇所で面談を行いました。小学校は勝手知ったる場所ですが、中学校は未知の場所。そこへ向かう道のりは、娘にとっても、そして見守る僕にとっても、ある種の緊張感を伴うものでした。
現代社会において、「学校へ行く」ことは圧倒的な多数派が作り出した「常識」という名のレールです。そこから降りて、自らの足で歩む「ホームスクーラー」という生き方を選ぶとき、僕たち家族は常にその「常識」という名の大きな揺り籠の外に身を置くことになります。
我慢して、多勢にいる「偽りの安心感」は、娘や僕たち家族の心を摩耗させることになります。
大人でも勇気がいる「生き方の宣言」
娘にとって、今回の面談は単なる手続きではありませんでした。それは、「自分はどう生きたいか」を大人たちに対して堂々と宣言する場でした。
自分の生き方を言葉にし、誰かに伝えること。これは、人生経験を積んだ大人であっても、容易なことではありません。「変に思われないだろうか」「否定されたらどうしよう」という不安がよぎるのは当然です。
そんな中、中学校の副校長先生を前にして、彼女はこう伝えました。
「学校に通うのではなく、自宅で、家族と一緒に、自分の興味やタイミングで、折に触れて学んでいきたい。」
その姿には、迷いのない清々しさがありました。多数派の常識に合わせるのではなく、自分の内なる声に従う。その決意を言葉にした時の娘の表情には、惚れ惚れするものがありました。
コミュニケーションを「ケアの場」にするために
多数派の価値観に対して、自分の異なる意見を伝えるとき、僕たちはつい「戦わなければならない」と思う傾向があります。
要するに、「怖い」わけです。
そして、相手を説得しようとしたり、自分の正しさを証明しようとして、言葉が攻撃的になってしまうこともあるでしょうか。
しかし、僕が心理学やスピリチュアリティの学びを通じて大切にしたいと考えているのは、「コミュニケーションは戦い、勝負事やマウントの取り合いではない」ということです。
相手(学校側)が抱くかもしれない「学校に来ないで大丈夫だろうか」という不安や恐れ。それが指導やアドバイスとなって表現されることはしばしばあります。
しかし、それに対して、僕自身、反発するのではなく、愛を持ってケアをするように心がけています。まっすぐに語ること、不安を共有すること、そして、それらを工夫、そして時にはユーモア(機知)を交えながら、お互いの立場を尊重しつつ、自分たちの選択を丁寧に説明していきます。
面倒な手続きのように思えますが、その後の人間関係に良い影響を与えます。コミュニケーションを、お互いの心の恐れを癒し、理解を深め合うための「手段」にしていきたいと考えます。
知的好奇心が導く、新しい学びのカタチ
ホームスクーラーとしての僕たち家族の視点は、決して「教育の否定」ではありません。むしろ、教育を「本来の姿」に戻そうとする試みです。
決められた時間に、決められた場所で、決められた内容をこなす。その「枠」から解放されたとき、僕たちの心には、誰から命じられるでもない「知りたい」という純粋な欲求が芽生えます。
自分の興味が湧いたタイミングで、深く潜り、納得いくまで探究する。そのプロセスこそが、一生モノの学びの力を育みます。中学校という新しい門出を前に、娘が示したのは「誰かに与えられる学び」ではなく「自ら掴み取る学び」への覚悟だったのだと感じます。
良い伴走者としてのホームスクーラー
面談を終えた後の帰り道、娘の表情はどこか晴れやかでした。
多数派と違う道を選ぶのは、確かに難しい場面もあります。それでも、自分を偽らず、誠実に自分の道を伝え続けることでしか得られない「誇り」がありました。
これからも、僕たち家族は「自分たちの生き方」を大切に育んでいきます。
学校という枠組みを「選択しない」ことで広がる、無限の学びの海へ。勇気を持って、あらたな一歩を踏み出した娘の隣で、僕はこれからも、良い伴走者でありたいと思います。




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