
マスターは東儀 宗介(とうぎ そうすけ)、かつて天使だった頃の名は、メネフィール (Menephiel)。
仕事帰りや週末に通う常連OKは、小鳥遊 紬(たかなし つむぎ)、28歳。中堅デザイン事務所のグラフィックデザイナー。
秋の深まりを感じる頃、11月を迎え、年の瀬を意識し出す土曜日の午後。
『都清見珈琲店』は、柔らかな午後の陽光と、店内の温かなオレンジ色の照明に優しく包まれていた。日中の少し肌寒い空気が、ドアをくぐった瞬間に、じんわりと融けていく。それは、単に室温が高いからではない。宗介の淹れる珈琲の穏やかな香りと、静かに流れる時間に織り込まれた人の温もりが、この空間を満たしているのだろう。
店内には、慌ただしい週末の喧騒とは無縁の、ゆったりとした空気が流れている。窓際には、余生を穏やかに楽しむ老紳士が、厚手のカーディガンに身を包み、ヘミングウェイの古びた文庫本を広げている。その横顔には、遠い海原の記憶でも辿るかのような、静かで深い充足感が漂っていた。
店の奥の席では、買い物帰りらしき主婦が、大きなトートバッグを傍らに置き、ホッと一息つくようにカップを両手で包み込んでいる。
カウンターの中では、宗介が、静かに磨き上げられたカウンターを、さらに丁寧に、無駄のない動きで拭き清めている。彼のその所作一つ一つが、この店の穏やかな時間を創り出しているように感じられた。
「こんにちは、宗介さん、あの…。また、変なことがあったんです!」
店内に入ってきて、開口一番、そう言って、紬は眉間にしわを寄せた。
「さっき、仕事のことで悩んでカードを引いたら、二枚のカードが出たんです。一枚は、『流れに身を任せなさい』って言っていて、もう一枚は、『自分の意思を強く持ちなさい』って…これって、真逆じゃないですか?どうすればいいのか分からなくなっちゃって。」
宗介は、紬の焦る気持ちが痛いほど分かった。
多くの人が、カードのメッセージが矛盾しているように見えて、混乱してしまうものだ。
「ーそれはですね、カードが紬さんに、人生の『二つの側面』を見せてくれているのだと思いますよ。」
宗介は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「人生には、自分の力ではどうにもならない、コントロールできない『流れ』があります。その流れの中で、紬さんがどう生きるかという『意思』もまた、とても大切な要素と言えます。カードは、その二つがどちらも紬さんにとって重要だと伝えているのではないでしょうか。」
「…でも、流れに身を任せるって、自分の意思を捨てるってことじゃないんですか?」
紬は矛盾したメッセージに困惑しながらも、質問を続けた。
「うーん、そう思ってしまいますよね。大切なのは、紬さん自身の心の『コントロール』と『手放す』ことのバランスを伝えていると考えてみるといいかと思いますよ。
例えば、川を渡るとしますよね。流れに身を任せるというのは、川の勢いを理解し、無理に逆らわないことです。そして、自分の意思を強く持つというのは、その流れの中で、その人がどこへ向かうのか、という目的地をしっかりと見据えているということです。」
宗介は、優しく、そして丁寧に言葉を続けた。
「例え話を続けますね。人生という名の川を渡るとき、目的地を決めずにただ流れに身を任せていけば、思わぬ場所にたどり着くかもしれない。しかし、目的地ばかりにこだわり、流れに逆らって泳ごうとすれば、疲れてしまいます。この二枚のカードは、紬さんに『流れを感じながら、自分の意思で進むべき道を選びましょう』と教えてくれているのではないでしょうか。」
「なるほど…。『両方大切だよ』ってことなんですね。」紬は自分に言い聞かすように言った。
「そうです。もし、どちらか一方のメッセージだけを受け取っていたら、どんな未来が予想できるでしょうか。『流れに身を任せなさい』だけだったら、人によっては漠然と日々を過ごしてしまい、本当にやりたいことを見失ってしまうかもしれない。『自分の意思を強く持ちなさい』だけだったら、頑張り屋さんの人ほど、きちんと自分で、まわりに迷惑をかけずに…と、一人で孤独に突き進んでしまうかもしれない。」
多くの人の事例を知っている宗介の言葉は悲しげで優しかった。
「…確かに、そうですね。どちらもわたしには必要なメッセージだったのかも。」自分を顧みながら紬はつぶやいた。
「オラクルカードのメッセージが矛盾しているように見えるときは、それを『二者択一』の問題だと捉えないでみるといいですよ。『バランスをとりなさい』というメッセージを伝えている。『休みなさい』というカードと、『行動しなさい』というカードが一緒に出たとしますよね。これは、『ただ休むだけでなく、次に何をするか考えながら休み、そして、休息をとったらすぐに行動してみましょう』というメッセージと言えるのです。」
宗介は、紬の瞳をじっと見つめながら、言葉に力を込めた。
「人生は、矛盾の連続です。その矛盾とどう向き合うか、どうバランスを取っていくか、ということが、私たちを成長させてくれると思います。カードは、そのためのヒントを、わたしたちに与えてくれているでしょう。紬さんは、そのヒントを頼りに、紬さん自身の人生の羅針盤を動かしていけばいいんですよ。」
宗介の言葉は、祈りにも近い輝きを帯びていた。





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