スターシード子育て 不登校で学力大丈夫?

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「不登校」で学力は大丈夫?ホームスクールとの違いは?

我が家の感覚としては、世間で言うところの「不登校」というよりも、「ホームスクール」と言ったほうが適切かもしれません。

家族の思いに学校への復帰は微塵もなく、自由に学んで欲しいと思います。氣ままに学び、充分に自分と対話する時間を持って欲しいです。

子どもが学校に戻ることを望んでいれば「不登校」で、学校とは距離を置いて、学習したいと思えば「ホームスクール」でしょうか。あとは、子どもの意志をどう尊重するか?です。

子どもが学校に戻ることを前提は「不登校」
家庭で学ぶことを選んだ場合は「ホームスクール」

ホームスクールをしていると、学校ではなく、家庭だからこそ学べる瞬間はよく経験します。

「不登校」であることのメリット

ホームスクールをしていると、親の尊厳が保てません。

情けないところ、みっともないところ、恥ずかしいところ、多くの矛盾を親の僕に見るわけです。

親としての威厳や権威主義など無くなってしまいます。いろんなことが透けて視えるスターシードの彼女にとって、地球のそういった「目眩まし」のような技術や価値観は必要ありません。

娘を見ていて思いますが、彼女が親である僕に敬意を払ってくれるのは、僕が素直になったときです。素直に自分の非を認め、謝るときです。

親子で一緒に何かをすれば、どうしても親としての「教育への勇み足」で間違うことが多く、その都度、謝っています。
誤解を怖れずに言いますと、謝れば謝るほど親子の関係はとても良好になります。

特に、怖かった・悔しかった・悲しかった・不安だった…という氣持ちに正直になるとき、娘は僕をとても好いてくれます。

我が家が、娘と相談してホームスクールにしたのは、親子だとこういう密なコミュニケーションが起こりやすいからです。建前でもなく、体裁を整える必要のない、素直なコミュニケーションです。

折に触れて、気の向くまま……

「今、なんかスゴイ学びが発生しているのでは!?」

と思える、奇跡のような瞬間を家族で共有しています。

そこには、たくさんの学びと喜びがあります。
「学力」という世の中が用意したものさしでは計れないものがあります。

一緒に「遊び」「創造」「空想」を楽しめる世界に飛び込むためには、大人の僕にゆとりがないとなかなかできないなと日常生活で感じています。

そのゆとりは、親自身の「自己受容」とも関係します。

幾ばくかでも自己受容を望みながら、今日もホームスクールをしています。

学力とは何なのか?

娘の学びを視ていると、本人の意志がまず始めにあります。それが木の幹である、そこに興味や技術で枝ができて、知識の葉がついていくように思います。

楽しそうに好奇心や関心の赴くままに、学びを広げていく娘とともにいると、学力というよりは、生きる力を思います。

学力とは、社会構造に適するために用意したものさし と言えるでしょうか。

学力の差ができれば、

競争意識が生まれる

学力を基準に評価されることで、学生同士や学校間での競争が生まれます。これにより、努力を促進することもありますが、過度な競争はストレスや不安を生む原因ともなります。

格差の可視化

学力は、地域や家庭環境、経済状況の違いによる教育機会の不平等を明らかにする側面があります。

この結果、学力差が社会的な不平等として問題視されることがあります。問

題を作り出し、それを解決するというビジネスができるわけです。
もちろん、しあわせかどうか?の格差ではありません。

学力では計れないものの軽視

学力というものさしが、試験成績や特定の学科に偏っている場合、他の能力(創造力、コミュニケーション能力、社会性など)が軽視される可能性があります。

これにより、多様な才能を評価する機会が減少する可能性があるわけです。受験のために、受験科目以外を軽視するか、諦めるという状況ですね。

進路やキャリアの選択に影響

学力は進学や就職の際の判断基準となるため、学力が高いほど選択肢が広がる一方で、学力が低いと進路が限定されることがあります。

これが、社会における階層や機会の不平等に繋がることもあります。学力による損得勘定の増幅にもつながると言えます。
「潰しが利くから経済学部」と友人が言っていたことを思い出します。

社会的な期待やプレッシャー

学力が高いことが成功や評価の指標とされるため、個人に対して高い学力を求める社会的なプレッシャーが生じます。このプレッシャーは、精神的な健康に影響を与えることもあります。

絵を描くことが好きなのに、たまたま学力が高くて法学部受験に力を入れだした友人もいました。絵は彼にとってとてもしあわせなものだったはずなのですが。

学力というものさしにより、社会構造に適応しやすい指針となりうる反面、それに伴う影響には慎重な対応が求められると言えるでしょう。

学力よりも、生きる力を

学力というものさしでは計れないものに、我が家では注力しています。

謝罪・依頼・挨拶する力

謝罪する力は、他人に対して、その他人が感じた悲しみや怒りをケアする力を大切にするものです。相手は、自分が尊重されたと思うでしょう。悲しみを理解してくれたと思うかもしれません。その領域に踏み込める度胸と信頼を身につけて欲しいと思います。

そして、相手に対してお願いする技術も生きていくうえで大切なものです。自分一人では生きていけないという前提もありますが、人はお願いされると嬉しいということも上手に処世術として感じて欲しいです。

挨拶する力も、「自ら、率先して」が大切で、人は尊重される、注目されることに対して喜びを感じるものですから、挨拶は贈り物のようにする感覚を身につけて欲しいです。

自分を動機づける力

人はなかなか変われないことは、

「明日からダイエットする宣言」
「夏休みの宿題はいつも新学期前夜」
「長年連れ添っても喧嘩ばかりの夫婦」

などの言葉を並べると理解できるでしょうか。
人が大きく変わる時は「離婚」「大病」「リストラ」など破綻的なことが起きる時です。

そのまえに、自分を動機づけて、自分の望む人生を歩むには、コツがあります。

自分の心とのコミュニケーション力

小さい頃から、感情的になるとそれを否定されたなどの経験を持つと、大人になって自分が何を感じているのか分からなくなることが少なくありません。

「泣くんじゃありません!」「騒がしい!うるさい!黙っていろ!」
「人に迷惑をかけるんじゃない!」「感情的になるな!」

その結果…

  • 他人の言動によって自分の心が決定する
  • 情報や皆が正解だと思うことを選択する

…となる可能性があります。

ですので、

今、わたしは何を感じている?どう思った?と優しく自分とコミュニケーションをとる機会とセンスは人生を自分軸で生きているためには重要です。

不安の多い世の中で、ものさしがあり、可視化できると安心が手に入るような氣持ちはあるかもしれません。しかし、あらたな不安を創り出してしまう可能性があります。

それならば、自分の心に正直にいられる強さ、世の中での工夫をする力を身につけていくという選択肢もあっていいと思っています。

学力というものさしを手放した家族の言葉です。

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