アサーティブネスになれるだろうか、傷つくって、自作自演なの…?

スターシード子育て

「せっかくやったのに!」
「頑張ったのに!」

と誰かに思ったこと、言ったことってありますか?

娘の小葉(このは)は、4月から幼児園の年中さんになります。

(バディスポーツ幼児園では「ミドル」と呼ぶ)

年少々から通っていますので、幼児園生活も折り返しになります。

お昼はお弁当で、人によっては園の提供する外注のお弁当を頼んでいる人もいます。

手作りのお弁当を食べて欲しいという氣持ちが強いので、お弁当を外注することに抵抗があります。特に僕、潤治が…ですが。

ここ数ヶ月、そのお弁当を小葉は残して帰ってくることがあります。

園の方針では、全部食べることを教育の一環としているようですが、小葉は自分の口に合わないと容赦なく残すし、「あれ、入れないでね。」とリクエストしてきます。

小葉が差し出したおかずやおにぎりがそのまま入っているお弁当を見て、それを僕自身で廃棄し、その器を洗う時、もう、なんとも言えない悲しい、悔しい氣持ちになります。

頑張った自分も廃棄するような氣持ちです。

その小葉に対して、「作ってもらったものは残さずに食べること!」と言うのが、何となく違うような氣がして、彼女のリクエストになるべく添うように作るようにしています。

あまり無理をしないように、です。
このあたりのさじ加減、バランス感覚はとても大切です。

親からの一方的な押しつけとしては、「作ってもらっているんだから、ちゃんと食べなさい!」とか「だったら、自分で作りなさい!」とか、言いたくなります。

よくよく考えると、それは訳の分からない論理のように思えます。

誰かに強制をする権利はないし、請け負いながら急に放棄することを示唆して脅す権利もありません。

そうかと言って、「パパ、頑張って今日も残さずに食べたよ!」なんて小葉が言うようになったら、それはいっそう悲しいことに思えてしまうのです。

これと似た感覚、何だったかなあ?と思い返していたら、先日、高校生の頃にもらった手編みのマフラーやセーターが思い出されました。

その時、僕は彼女の想いに応えようとして、チクチクする首回りが不快なのに、着続けて首回りに湿疹ができました。

頑張り屋さんの彼女は、母親に編み物を習い、クリスマスに間に合うように頑張ったと話してくれました。

ずいぶんと最強のカードを出してくるなぁ…と思いましたが、純粋に彼女の氣持ちに応えたいと思ったし、その期待に添える自分が誇らしいとさえ思っていました。

期待に応えることが、愛情表現だと思っていたのですね、僕は。

残念ながら、その愛情表現は「隠れた自己」を創り出しました。

隠れた自己とは、抑圧・隠蔽された自分という意味であり、本当の欲求が満たされていないことを示します。

「このセーター、チクチクして嫌なんだよぉ!着たくないんだよ!本当はぁ!」
「君のプレッシャーを感じるぅ!怖い!僕はその期待に応えることはできないかも!それでもいい?」

と本当は言いたかったのでしょう。

言えないまま、何となく彼女の仕草や言動が嫌になるようになって、お互いに新しい恋人を作り、別れることになりました。

残ったのは、僕の強化された価値観や感覚…(むしろ誤解)

「プレッシャーを与えるプレゼントを贈る人はプレゼントテロリストだ。」
「愛に応えるためには、頑張らなければいけない。」

は、その後も続きました。

そして、今回の娘へのお弁当作りは…

「頑張ってお弁当作りをしていたんだ…。」
「何かを押しつけてしまおうとしていたのかも。」
「傷つくなら、それは愛ではなくてコントロールだよなぁ。」
「僕は勝手に頑張って、周りにプレッシャーの火の粉をまき散らしているだけだ。」

と僕に感じさせてくれたのでした。

美味しいものには、美味しいと言い、いらないものにいらないと言える娘の姿勢に感謝をしつつ、僕のこじらせている愛情表現を見直している今日この頃です。

つまり、期待に応えることが愛だと思って頑張ってきた僕、その奥深いところには、「君も僕の期待に応えろ!」と要求しているわけですね(吐き気が…)。

娘もお世話になっている義母には、「これ、あんまり大好きじゃない…」とやわらかめに主張するようです。

「そこ、大事だよなぁ。自分を上手に伝えているねぇ。」
とアサーティブネス(優しい自己主張)な姿勢を見習うわけです。

愛という言葉を隠れ蓑に、自分のコントロール欲求、承認欲求を表現していたのに…

簡単に娘は僕の簔を引っぺがします。

本当、傷つくって自作自演だよなぁ…と高校生の僕に言ってあげたい。
もちろん、今の自分にも…。

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