いつもお読みいただき、本当にありがとうございます。
AQUA MIXT 潤治です。
セラピーを生業とさせていただき、さまざまな人に影響を与えているかもしれないと思うことが多くなり、自分を省みる機会も増えます。
…と格好つけなくとも、パートナーの寛子から僕へのツッコミが入ります。
「その姿勢、本当にその人のためにやっていることなの?」
寛子のアースエンジェルでいうところの「賢者」の部分が、
同じ「天使の生まれ変わり」でありながらも夫婦関係ではバランスをとろうとするんでしょうね、
僕の浅はかさを鋭く突いてきます。
ごもっともなご意見でございます…と言わざるを得ない正論です。
愛を抽象的に捉えることはできるかもしれませんが、
それを定義することは難しいと感じます。
夫婦間で転生の多さが違うというのは、とても窮屈なものです。
ほぼ真理に近いことをその転生の多さから指摘してきます。
おかげで僕の内省力はあがり(責任転嫁ができないからね)、
僕自身の無駄に見えた過去は学びの宝石箱やぁ状態になってくれています。
無断な過去などワンピースも無いと確信する日々です。
さて、今回が「見守る愛と見張る愛 すり替わる愛情」シリーズ最終回です。
僕の持っていた感情…
「自分だけが娘を独占したい、可愛がりたい、自分の影響下で成長して欲しい」
「自分だけが娘を独占したい、可愛がりたい、自分の影響下で成長して欲しい」
この思いはある人の影響でした。
僕の父は僕を溺愛してくれました。
残念ながら、母と仲良く暮らしてくれることを僕は望んでいましたが、
父が示したい愛情は、僕のその希望を叶えることはなく、
ただただ、自分が与えたい愛情を不器用に与え続けていました。
残念ながら、母と仲良く暮らしてくれることを僕は望んでいましたが、
父が示したい愛情は、僕のその希望を叶えることはなく、
ただただ、自分が与えたい愛情を不器用に与え続けていました。
喉が渇いてる僕に、お腹が減っているだろうとビスケットを渡すような愛情でした。
美味しいビスケットだから、と僕の口に押し込み、口の水分を奪います。
彼にとっては、
「自分の支配下において息子を幸せにすること」
を愛と思って表現し続けました。
父が僕に強いていた「大事にしたい」という思いは、
父の癒されていない思い「大事にされたかった」というものでした。
それは父が成し遂げられなかった痛みでもあります。
野球選手を目指した父が息子に野球を強いるのと同じ理屈でしょうか。
それは愛のひとつの形ですが、子供は反発したくなります。
自分と同じような目に遭わせたくないという親の愛も、
子供からすると大きなお世話である時があります。
むしろ、どうなるか信頼して任せて欲しいかもしれませんね。
父の愛はその父親(お爺ちゃん)が彼に何もしてあげなかったことに由来しています。
僕の父はとても愛を求めながらも
子供の頃からそれを手に入れることが出来なかったのだろうと思います。
だからこそ、自分を救うためにも僕をその支配下で幸せにしてあげたかったわけです。
その彼の痛みを知ることができて、今現在、父にはとても感謝しています。
僕の生きる人生で幸せになることを僕は自分本位で実現させていくつもりです。
父の愛情には感謝していますが、愛の形は歪んでいました。
父が息子である僕を愛していたことは確かなことだと感じます。
その愛を認めることが僕自身の娘に対する思いがフラットになっていくのが分かります。
何か偏った思いは、過去の癒されていない感情から起こっているかもしれません。
子育ては親の心育てと感じる今日この頃…。