いつもお読みいただき、ありがとうございます。
AQUA MIXT 潤治です。
処暑が過ぎ、一気に秋めいてきたと思ったら、
暑さが戻り、照りつける太陽をちょっと恨めしく思ったりもしています。
洗濯物がすぐに乾くので、それはそれで感謝しているのですが、矛盾する感覚にモヤッとすることもしばしば。
暑さがぶり返し、大人でも身体の調整が難しいと思えるのに、
愛娘 このは にとっては厳しい暑さです。
暑さによる不快感を惜しみなく(?)表現するこのはに、
睡眠不足なるママとパパなのでした。
圧倒的な睡眠不足は寛子のほうで、僕は火の粉がかかる程度なのですが…。
3日間ほど続いた暑さ愚図りに、僕は精神的にも肉体的にも疲労困憊になりました。
(火の粉がかかる程度なのに…)
愛しているはずの愛娘 このはの愚図りに、
認めたくない感情が生まれるのを感じました。
暴力性…です。
我が子を虐待してしまう母親の話を程度はともあれ、耳にすることはありますが、
僕の中にもその種はあり、環境など条件が揃えば、
いとも簡単に発芽してしまうんだ…とあらためて感じました。
子育てが孤立無援で、終わりのない、出口のない迷路のように思えたら、
内なる暴力性は発芽し、虐待という行動に及ぶ可能性が、僕の中にあるということです。
虐待についてのご相談もスピリチュアルな視点や過去生などの視点、
トラウマとの関係などから紐解くことがあります。
このはのおかげで、より自分事としても理解することができ、
虐待してしまう気持ちと愛したい気持ちの狭間で
苦悩する親御さんの気持ちを感じています。
そのことをこのはを抱っこしている寛子と共有する時がありました。
寛子に抱かれ、すこし眠たい愚図りをしているこのはでした。
「あのね、このはのことをとても大事にしたいという気持ちもたくさんあるんだけど、
たまに信じられないほど、暴力的なことを考えてしまう自分もいて、
そんな自分が怖くなって、逃げ出したくなるんだ。」
「うん、そうだね。」
「そんなこと感じている父親で良いんだろうか?とか、
そんな父親の感情をこのはが受け取って悪い影響はないか?とか、
胸が張り裂けそうになるの。」
…と、寛子と共有していたら、このはが急に愚図るのを止めて、
僕のほうを見つめて、声を出しました。
「うぅーん。」
先ほどまで、赤ちゃんだったこのはが、年上のお姉さんのように、
目に涙を浮かべて、しきりにこちらを向いて慰めてくれるのでした。
「パパ、正直に話してくれてありがとう。
パパの癒されていない感情を理解したいんだよ。」
(…と言っているかのよう)
…癒されていない感情。
人にセラピーを施す場をいただくようになって十数年、
自分に癒されていない感情があることを否定したい自分もいますが、
段階はあるでしょうが、その感情に気づかされます。
そして、その感情は寛子というパートナーのおかげで
いっそうあぶり出されます。
自由で無条件に受容されて育った寛子の姿が、
僕のありのままの姿を映し出してくれます。
彼女は僕と同じような暴力性はなく、
ですので、いっそう僕のその部分が際立ってしまいます。
もし、僕と同じようにこの部分に関して癒されていない感情を持っているパートナーだったら、
僕はその相手を責めたり、批判したり、攻撃することで責任転嫁ができたのかもしれませんが、
寛子を通して、映し出される僕の姿はただただ未熟な自分です。
未熟な自分を受け容れ、その自分を偽らずに正直にパートナーと共有することで、
癒されていない感情を癒し、慰め…、
いつの日か無条件の受容ができるように研鑽していきたいと感じます。
人生はとても豊かなものですね。
いろいろな痛み、悲しみ、喜び、愛しさ…、感情を味わえる豊かさを思います。
そして、寛子と共有した日…、
何か視線を感じるので振り向くとこのはがじっと見つめてくれていて、
目が合うとニコっと笑うのでした。
君は僕を救いに来てくれたんだね…と
思わざるを得ない日々を暑さの中に見いだす僕なのでした。