不登校児が急増する世界
娘が小学2年頃から、「パパ、3年生になったら学校やめるね。」宣言の不登校をきっかけに、いろいろな方と接する機会が増えました。そして、「アンスクーリング」「ホームスクール」という言葉も知りました。「学校」を選択しなくても、いろいろな選択肢で子どもたちは育つわけですね。
しかし、「不登校」という言葉に、負のイメージがあるようです。
「学校は(誰もが)行くもの」が前提として語られているイメージですが、いかがでしょうか?
僕自身は、ベビーブーマー世代ですから、子どもが多くて統制をとるのに、学校の先生も親たちもたいへんだったことを記憶しています。
統制をとるため、ある程度のコントロールをするために、
「学校に行かないとたいへんなことになる」
「りっぱな大人になるために学校に行け」
「我慢してでも、学校に行こう!」
と思わせた方が良かったのでしょう。
いつまでも、自分には合わないと思う人を、学校というシステムに合わせようとするのは無理が生じてきています。多くの不登校児、そして、深刻な状況と言われる(令和3年度版 自殺対策白書 より)10代の自殺者数の増加は、今の時代の問題点をあぶり出す。
不登校とホームスクールの違いは?
積極的不登校である娘は、10歳になりました。
学校とは適度な距離感で関わっています。
- 年3回 学校側と親子面談をする
- 家庭での「学習記録」をつける
の2点が、学校と話し合って決めたことです。
校長先生の裁量によりますが、その話合いができてよかったなと親としては思います。
我が家の感覚としては、世間で言うところの「不登校」というよりも、「ホームスクール」と言ったほうが適切かもしれません。
家族の思いに【学校への復帰】は微塵もなく、自由に学んで欲しいと思います。氣ままに学び、充分に自分と対話する時間を持って欲しいです。
子どもが学校に戻ることを望んでいれば「不登校」で、学校とは距離を置いて、学習したいと思えば「ホームスクール」でしょうか。あとは、子どもの意志をどう尊重するか?です。
家庭で学ぶことを選んだ場合は「ホームスクール」
ホームスクールをしていると、学校ではなく、家庭だからこそ学べる瞬間はよく経験します。
家庭でできる学びの良いところは娘と一緒に「遊び」「創造」「空想」を楽しめる世界に飛び込んでいけることだと感じています。
時間もなく、必修科目もなく、1コマの時間が決まっているわけでもない、家庭時間だからこそできるということは多いです。ご近所の方々の協力も大変助かります。
自分の氣持ちに正直になることは素晴らしい!
ホームスクールをしていると、親の尊厳が保てません。
情けないところ、みっともないところ、恥ずかしいところ、多くの矛盾を親の僕に見るわけです。
親としての威厳や権威主義など無くなってしまいます。いろんなことが透けて視えるスターシードの彼女にとって、地球のそういった「目眩まし」のような技術や価値観は必要ありません。
娘を見ていて思いますが、彼女が親である僕に敬意を払ってくれるのは、僕が素直になったときです。素直に自分の非を認め、謝るときです。
親子で一緒に何かをすれば、どうしても親としての「教育への勇み足」で間違うことが多く、その都度、謝っています。誤解を怖れずに言いますと、謝れば謝るほど親子の関係はとても良好になります。
特に、怖かった・悔しかった・悲しかった・恥ずかしかった…という氣持ちに正直になるとき、娘は僕をとても好いてくれます。
我が家が、娘と相談してホームスクールにしたのは、親子だとこういう密なコミュニケーションが起こりやすいからです。建前でもなく、体裁を整える必要のない、素直なコミュニケーションです。
折に触れて、気の向くまま……
「今、なんかスゴイ学びが発生しているのでは!?」
と思える、奇跡のような瞬間を家族で共有しています。
そこには、たくさんの学びと喜びがあります。
一緒に「遊び」「創造」「空想」を楽しめる世界に飛び込むためには、大人の僕にゆとりがないとなかなかできないなと日常生活で感じています。
そのゆとりは、親自身の「自己受容」とも関係します。
幾ばくかでも自己受容を望みながら、今日もホームスクールをしています。