先日、幼児園の保護者面談に夫婦で参加したときのこと。
娘の小葉が、園でどのように生活しているか、楽しんでいるかを現場の先生から伺う機会はとてもありがたいものです。
ひとしきり、お話をうかがい、面談時間も終わろうとした時、
「お弁当には苦労しています。」と現場の声をいただきました。
食べるための時間がかかるそうです。
野菜が多く、3分搗きの玄米ですから咀嚼するために時間が必要です。
他の園児に比べて、ひょっとしたら食べるのに苦労しているのだろうと
お弁当の内容を思い返しても作っている張本人はビンビン感じるわけです。
「ああ、茶色いお弁当だなぁ…って。自然食だなぁ…って。」
ただただ、他意なくお弁当のフィードバックを先生はしただけなのですが、
僕の絶望センサーは感度よくその言葉を過度に歪曲して受け取りました。
「わたしも幼い頃、茶色いお弁当だったんですよ。」
とフォローするように先生は仰ってくださいました。
(氣を使わせる僕)
「まるで、おじいちゃん弁当だものね。」
と僕もよせばいいのに、自分の頑張りを茶化してみます。
朝早く起きて、一から作るお弁当。
菜食料理教室の再開も視野に入れて、レシピ開発も兼ねていました。
おかげで2時間かかっていたお弁当作りも2ヶ月も経つと
1時間もかからなくなっていきました。(バカでしょ?w)
それを娘の小葉は察して、
「パパ、ママ、お弁当きれいきれいだよ!」
と空になったお弁当箱を見せるようになっていました。
ああ、僕の頑張りが娘を頑張らせ、
良かれと思って作った車麩の唐揚げで喉を詰まらせながら食べていたなんて…。
あまりのショックに呆然として、今にも泣き出しそうな空の下、帰宅しました。
帰ってからも、思考停止状態は続き、
そんな時も「僕の魂はどんな人生を望んでいるだろうか?」と問いかけ、
「守護天使よ、それを分かりやすい形で僕に感じさせてください。
近づく一歩に誘ってください。」とお願いはするのですが…。
すると、涙がボロボロと落ちてきました。
「これが涙。僕は泣いているの?」
と新世紀エヴァンゲリオンの綾波レイばりに不意をついた涙に驚き、
堰を切ったように溢れ出る涙にただただ身を委ねました。
外では紫陽花も泣いていました。
また、やっちゃった!と思うわけです。
誰 かのためと奮起する→頑張る→アドレナリン放出→いつの間にか自分との戦いとなる→もう、誰かのためという大義名分はどうでもいい→意地になる→希望が見 えてくる→頑張り通せることもあるが多くは燃え尽きる→考えるのをやめた状態→絶望→希望を探す→希望を見つけてテンション上がる→下手したらその対象に投影 →振り出しに戻る
僕の場合、きっと本当は頑張りたくないんですね。
それは自分のペースでできないものだから。
誰かのために何かをすることはとても素晴らしいことだと思います。
しかし、自分のペースでできなくなると
「せっかくやりだしたことだし」
「自分で言い出したことだし」
「責任があるから」
「こんな逆境でこそ力を発揮する」と自分を鼓舞してしまうのです。
自分のやりたいように、氣分のままに手伝ったり、誰かにやってもらったり、
時にはスルーしたり、ということができないのです。
人生には責任がついてまわると感じています。
それは一面真実ですが、制限を植え付ける思考パターンとも言えます。
「本当の責任とは何でしょうか?」
アースエンジェルにはその習性が多分にあると思います。
結局、面談後のお弁当作りはママの仕事です。
そして、残念ながら、家族の穏やかな調和がもたらされています。
小葉はママの作った料理を喜び、パパに遊んでもらうことを楽しんでいます。
ひょっとしたら、僕が悲劇を創り出そうとしていたなんて…
言わないよ~♪、絶対ィィィィィィィ!w