自己肯定感に過去生は影響しているのか
スピリチュアルカウンセリングでは、相談者の方の過去生をしばしば観ることがあります。その過去生で起こったその時の感情は、今世でのその人の人生に影響を与えているようです。
相談の多くは、なぜだかわからない不安や恐怖心で思考が狭窄していることから発生するものが多いです。
過去生での「置いてけぼりの不安」「生き残った罪悪感」「判断間違いのために起こった災難」「機械への恐怖」「性差による虐待」「奴隷差別」「幼児虐待容認」「魂を売った記憶」など、例は一部ですが、いろいろな記憶があります。
そして、それは幼少期のトラウマとして影響が出ることがあります。
過去生での自分の体験を、今世でも追体験するかのように、です。
その体験を強化してしまうこともしばしばあります。
「ああ、わたしはこういう運命なんだ…。」というように。
わたしたちは運命の奴隷か?
過去生で迫害を受けた人たちは、目立つことを無意識レベルで怖れます。
しかしながら、過去生から転生した目的がそうさせるのでしょうか。
不思議と目立つような巡り逢わせが人生に訪れます。もちろん、目的とは「迫害を乗り越えたい」というものですね。
また、過去生で両親を失ったり、離ればなれになった人たちは、家族を愛し、理想の家族愛を求めます。
しかし、同じように、不思議と家族を持つことを怖れ、ひとりになってしまうような現実を創り出そうとします。
表層意識では求めることも無意識レベルで恐怖心が出てきてしまうというわけですね。
ですので、その引き寄せる不幸は「やっぱり」という安堵感をその人に感じさせるわけです。この人生で本当に望むことからは遠ざかりますが。
- やっぱり目立つと人の嫉妬を受けてろくなことは無い
- やっぱり家族を持つなんてわたしには無理なんだ
- やっぱり自分の幸せを追い求めると苦しい思いをする
- やっぱり夢を追いかけると周りの人たちが迷惑する
- やっぱり本当の想いを表現すると弾圧される
どこか、自分の深いところに「やっぱりこれがわたし…」という過去生から持ち続ける無意識なレベルでの自分像があるとしたら、それをどう扱えばいいでしょうか?
運命は変えられる、過去生からの解放
わたしたち人間は人生を選択する力を持っています。
自由意志というものですね。
僕はお互い憎しみ合う両親のおかげで「家族」「愛し合う」というものを幼い頃に学ばずに育ったように思います。
愛し愛されるという素晴らしさを自分の体感として、心と記憶に刻まなかったわけですね。
過去生でも似たようなことがあったかもしれません。
その過去生を再び実現させたくて、そして、それを乗り越えるために、不仲な両親のもとをわざわざ選んで生まれてこようと思った…と感じています。
- 人を愛するということ
- 人から愛されるということ
- 人に与えるということ
- 人から受け取るということ
などを学びたかったわけです。
愛し愛される家族を持ちたい!(潤治の場合)
そのような体験を今世でしたいという強い想いがありました。家族欲しさに、早々に1度目の結婚をし、パートナーシップを紡ぐことになりました。
しかし、誰からも教わっていないパートナーシップを実践することはできず、パートナーを愛そうと思っても、傷つけてしまい、相手を大切にしようと思えば思うほど、真逆のことをパートナーにしてしまう始末。
「やっぱり、これが僕なんだ…」という失敗作の人間。
愛しているのに、なぜ、傷つけてしまうのか気づいてさえもいない…わけです。そして、僕は離婚する時に、ああ、やっぱり僕は家庭なんて持つ人間じゃあないんだ…と不幸であることの安堵感を感じたものです。
離婚するために結婚したわけではありませんが、無意識レベルでは、過去生と同じように人生に絶望したり、人生に屈服したかったのかもしれません。
ああ、やっぱり、僕は不幸でいることがお似合いなんだ…というわけですね。
しかし、運命は変えられます。
自己肯定感はいつでも育めます。