人生に猜疑心というのは、付き物だと僕自身は思います。
「引き寄せの法則」をテーマにした著書がこれほど多く本屋の棚に並ぶのですから、それを阻害する猜疑心はあまり語られることは無いけれども裏テーマとして扱うと良いのでは?と思ってしまいます。
猜疑心は、自分の身を守るために必要なのかもしれませんが、多くの機会を奪ってしまうことにつながります。
僕が学生の頃、大好きな彼女がいました。その彼女が先輩と楽しそうに話しているのです。僕の知らない彼女の笑顔はショックでした。(バカでしょ?)
「ねぇ、S先輩と仲良く話していたね…。」
「うん、あたまを小突くんだもん。やんなっちゃう。…潤治、なんか怒ってる?」
「怒ってないよ。」
「怒ってるよぉ~。」
「怒ってないってば。なんで怒んなくちゃいけないんだよ。」
「なら、良いけど…。」
心の中では…
「えええええ!?良くないんだよぉ~!」
「もっとS先輩と話していたことに関して僕に質問してきて!」
「『S先輩のこと、氣にしている?バカだなぁ、潤治が氣にするような仲じゃないわよ。』とか言って欲しい!!!!」
などと自分だけで思っているわけです。
僕はどこまでも「自分が大切」であり、「自分が傷つくことは嫌だ」と思っていました。
だから、皆さま、察して欲しい。
僕の氣持ちのひだをこと細かに感じて欲しい。
彼女なら、それが当然でしょう?
と自分の問題は棚に上げて、愛を担保に要求する男でした。
条件づきの愛情表現を親から受け継いだのかもしれません。
そのほうが確実な愛情を早く感じられると思ったのかもしれません。
愛情を感じるセンサーが鈍感になっていたのでしょう。
目に見える等価交換のような愛情のやりとりじゃないと自分が満たされていない思いでもがき苦しみました。
「愛しているなら、して欲しいよ。してくれないの?」
「どうして、僕の氣持ちをわかってくれないの?」
「彼女なら、僕を持ち上げたり、守ってくれるのが当然でしょ?」
僕は「くれない症候群」であり、本当の氣持ちを表現することから避けていました。
それは、「僕は君に愛される価値のある人間なの?」「どうして僕を愛してくれるの?」という猜疑心でした。
まるで、ほら、僕は愛される価値はないでしょ?と証明するために彼女に無理難題を押しつけるのです。
残念ながら、真っ直ぐに僕の氣持ちを彼女に伝えることはなく、自分の猜疑心に自分自身が自滅するという恋愛を繰り返しました。
たったひとつ、自分を認めてくれる人がこの世にいるという事実を知ることは怖いことでした。
知ろうとして裏切られてしまったら、立ち直れなさそうだから…。
しかし、どんな自分でも認めてくれる「自分を愛してくれる人」の存在は人生に大きな影響を与えてくれます。
それはとても身近に存在している人かもしれません。
確かめようとするだけで、その存在に氣づくのかも。