この数年、「家族」について考える機会が多いように思います。
僕自身が父親となり、娘の人生と対峙することも増えました。
前回に続き、「親の愛」について書いていきたいと思います。
お付き合いいただいてもいいですか?
さて、
「親の愛」と言われて、どんな愛情表現をイメージしますか?
愛し方や愛そうとする人の動機や欲求によって如何様にも表現を変えていくように僕自身は思います。
「子どもを愛さない親はいない!」と、
中学生の頃、僕の担任だった女性教師が涙を流しながら、お説教してくれました。
「だから、あなたも愛されているのよ。」
という論法をいささか乱暴だなぁ…と思いながら、
部室で人生ゲームをやっている友人たちのことを思っていました。
わたしはあなたを愛せている?
あなたはわたしの愛をどう受け取っている?
今、娘がやってきて、曲がりなりにも「父親」という機会を与えてもらっています。
そこで、「愛し方」「僕自身の動機や欲求」を省みる機会が多いです。
子育ては親の心育てと感じる今日この頃。
振り子の法則というのか、娘を思う気持ちが揺れ動くことがあります。
娘の成長を見守る気持ちと見張る気持ちです。
何だか奇妙な言葉の対比ですね。
見守る愛と言うと恰好が良いですが、見張る愛となるとおどろおどろしい気がします。
それは、つまり、監視し続けたいという思いでしょうか。
本当にありがたいことに多くの人に娘の小葉は大切にしてもらっています。
小学校の先生方、地域の方々、サロンにお越しになる皆さん、お義母さん、義理の弟さん、ママ友、パパ友…
いろいろな人に触れて成長してくれればいいなと思っています。
そう言いながらも、ある感情が芽生えてくることを感じます。
自分だけが娘を独占したい、可愛がりたい、自分の影響下で成長して欲しいといったところです。
大切にしたいという気持ちがいつの間にか娘を
無菌室にでも閉じ込めておきたい看守のような気持ちにすり替わっていく時があります。
そんな物騒な気持ちを感じる自分に驚くこともあります。
そこまでひどくなくても誰にでもある感覚ではないでしょうか。(あ、ない…?)
わたしがアンカーになろう!負の連鎖をここで食い止めよう!
その志を持つことが、わたしの愛のカタチ…
先日、最愛の息子さんを小学校に活かせることに抵抗があるというご相談を受けました。
娘の小学校の様子を見ても、至極当然のことのように思う僕もいます。
今まで手塩に掛けて育てた息子さんを他人の管理下に置くことはとても抵抗があるというわけですね。
ところで、
お子さんを育てる時に、親から引き継いだものを自分で止めようとするママさんは少なくないと思います。
例えば…
父親の暴力や母親のヒステリー、
虐待や差別、被害者意識やコントロールといった感情でしょうか。
流れを自分のもとで止めようと、過去の悲しみや癒されない感情を自分で抱えつつ、我が子にはそういう思いをさせまいと人知れず大義を全うしようとしているわけです。
そのような思いを抱えて育てていた息子さんを他人に任せることに抵抗があるのはとても当然な感覚と僕は思います。
「何も知らないくせに!」と雑に扱おうとする他人に僕ならキレちゃうかも…(苦笑)。
※大丈夫ですよ、自分の「感情」を癒し、それを才能として磨いてきますから。
そして、
「いろいろな人に触れて、子どもはいろいろなことを学ぶんだから。」
「あなたが子離れして、子どもを自由にしてあげなさい。」
といった、何となくの正論もありますね。
正論と感情論を一緒にテーブルにのせれば、正論が理屈では感情論を抑えつけるでしょう。
感情論がどこに端を発しているのかを知らずに正論を振りかざすのはぶれたコミュニケーションだと感じます。
ある意味、暴力です。
その感情がどこから起こってくるのかを知り、その感情を癒すことがそのコミュニケーションの本質です。
癒し合うということですね。
「正しさ」よりも「優しさ」ということでしょうか。
僕の持っていた感情…
「自分だけが娘を独占したい、可愛がりたい、自分の影響下で成長して欲しい」
これに似た感覚が学生時代にもあったような…。
「自分の影響下で成長して欲しい」
「俺が幸せにしてやる」(考えてみれば傲慢…)
ー長くなるので、続きます。