感染症対策という欺瞞
小学校2年生の娘が通っている小学校…
先生、こどもたち、保護者のみなさんの顔を未だに覚えることができないでいます。
(道行く人に挨拶されても反応できないことが間々あります…)
娘が学校に行く日は、通学路で出逢うこどもたちに挨拶をしています。
それでも、覚えられません。
娘の入学式からずっとマスク生活ですから1年以上になりますね。
人が人を恐れるようになる感染症対策に、大人は「たてまえ」「面従腹背」のような共通認識があるかもしれません。
しかし、子どもはどうでしょう?
娘に付き合って一年以上、朝登校する子どもたちに挨拶していますが、面従腹従(造語)っぷりに胸が締め付けられます。
大人の作った「マスクは絶対という風潮」の一番の被害者は、それを守らなくては大人に怒られると従っている子どもたちだと僕自身は感じています。
怒られるから守っているルールへのストレスは、「わたしだって我慢しているんだから、あなたも我慢するべき」という意識や攻撃性を高めるでしょう。
大人のマスク警察という風潮は、子どもの無垢な残酷性で子どもたちの世界でより傷つく形になるかもしれません。
「大人になると、不条理なことも受け容れないとならない時があるからね、マスク生活はその練習だよ。」
ーいや、無理無理… そんなことを娘に教えている風の僕は、
僕自身に正直じゃないな…
死ぬ時に後悔するな…
自分を自分で誇れない…
と想像を働かせては、僕が自分に正直な行動を取るしかありませんでした。
マイノリティ(少数派)の葛藤
マスクによる慢性的な酸欠状態がもたらす脳内の神経細胞の死滅…低酸素状態に慣れることで、頭痛や眠気、息苦しさといった症状を訴えなくなるようです。
「マスク、苦しい!鼻出しても、頭痛くなることがあるよ。」
ほぼほぼしないマスクを登校する日は装着するので、僕に訴えます。
2年生になるタイミングで校長先生・副校長先生・養護の先生に以下のプレゼンテーションを行いました。
「お父さん、わたしたちもメディアの言うことが本当だとは思っていません。」
「診断書があるほうが、わたしたちも動きやすいです。」
という校長先生の言葉が印象的でした。
大人はこの微妙な信頼関係があるからね、やりやすいんですけど…
まぁ、うるさい父親ですよね、僕は…
わざわざプレゼン資料を用意するくらいですから。
30分弱のプレゼンテーションを忍耐強く聞いていただき、
「結局!僕が何を言いたいかと言うと…
今後もどうぞよろしくお願いいたしますってことです!」
と大げさに頭を下げました。
さざ波のような笑いが校長室に響き、マスクをしないで学校生活をおくる娘のフォローをお願いしました。
新学期、朝礼で校長先生から、「お医者さんにマスクをつけないように言われている子もいます。」と子どもたちの理解を促してくれたり、担任の先生には、僕がお願いした文言「今日からマスクをしません。」とクラスの皆に言ってくれたりしてくれて、娘の負担が少しでも減ったようです。
しかし、娘には言っちゃいますね、僕の本音。
「マイノリティ(少数派)って面倒くさいんだよなぁ…。」
「嗚呼嗚呼ぁ、回避したい!逃避したい!」
「結局、周りと同じ感じにしておいて、自分は自分の世界を進むとかさ、工夫すれば…。」
「いちいち『あれ?マスクは?』みたいな空気、ちょっとしんどいなぁ。」
「本音と建て前を上手に使い分けて、世渡りしたいよ。」
娘と本音で話す時、とてもよく聴いてくれます。
そこからコミュニケーション論に発展するのですが、娘はいつも楽しそうにしています。
「パパね、この面倒くさいって氣持ちで自分を誤魔化したら、
パパはパパでなくなるんだよね…。」
ー娘は「いつもありがとうね。」と言ってくれます。
「パパ、わたし、世界変えるよ!」
その後、友だちが我が家に遊びに来ることが増えました。
皆、楽しそうです。
僕自身も同じような想いの保護者のみなさんとつながるようになりました。
この世界は優しいです。
「おかしいな」を「仕方がない」で蓋をしない感覚を共有しています。
自分が変われば世界は変わる…と心理学 交流分析の言葉でもありますが、それを痛感する日々です。
ある日、娘が朝の登校時、靴を履きながら僕を見上げながら言いました。
「パパ、わたし、世界変えるよ。」
彼女なりの覚悟にシビれました。
自尊心、セルフイメージって本当、大切だなぁと思うわけです。
娘の言うことに賛同する友だちも増えました。
学校に行くのは相変わらず、彼女のペースや意志に任せていますが、
家にいると友だちが訪ねてくるようになりました。
自分の氣持ちに正直になる、自分の幸せを追求する姿勢のようなものを娘と分かち合っています。