いつもお読みいただき、本当にありがとうございます。
AQUAMIXT 潤治です。
スピリチュアル子育て ということTRINITY Web で連載をさせてもらっています。
昨年、12月あっという間に娘の小葉は1歳と7ヶ月になり、そこらじゅうを駆けまわっています。出来ることが増えてきて嬉しいようで、お昼寝の時間ももったいないという感じです。
親である僕たちはそれとは裏腹に疲労感たっぷりの日々でした。
仕事の依頼は増えつづけ、11月の小葉の断乳からノンストップで今日までやってきたように思います。
寛子は体調を崩しがちで、仕事と育児の両立に思うようにならずに歯がゆい毎日を過ごしていたようです。
疲労感というよりも、虚無感や無意味感、そして負い目などを感じることが寛子には多かったように思います。
寛子の愛し方は「完璧主義」です。
もっと何かしてあげられるのでは?
という問いを小葉が生まれてきてからいつも自分に投げかけているかのようです。
ですが、子育てにはここまでやったら満点というものはありません。
自分の完璧を目指すこともできるし、手を抜こうと思えばいくらでもできるという感じでしょうか。
この「手を抜く」という感覚がすでに「完璧主義思考」です。
あなたにもありませんか?
自分にご褒美だと思わないと自分を甘やかせないなんてこと。
寛子の実家はすぐ傍にあり、僕の実母も近くにひとり暮らしという奇跡的な状況の中、
小葉は選んで生まれてきたのだろうと思います。
一時保育をしてくれる保育園はとても良心的ですし、
安心して小葉を預けられる場所でもあります。
そして、家事を手伝ってくれるという身内も傍にいてくれます。
そういうサービスや人々の厚意に甘えること、
委ねることができる環境にはとても感謝しています。
しかし、それで寛子の抱えている問題は一側面しか解決しません。
満点がない子育てに完璧主義という愛し方をもって挑む寛子にとって
ゴールの無いマラソンを走っているような気持ちになるでしょう。
自分の持てる時間のすべてを娘ににささげたい。
娘がママを呼びたい時にはすぐ傍に居てあげたい。
泣きたい時はすぐに抱っこしてぬくもりを与えたい。
できるだけ手作りのものを与えてあげたい。
いつも一緒に散歩して、自然に触れていたい。
愛情を形にしようとすればいくらでも形にできるかもしれません。
完璧主義をもって愛そうとするといつも自分が理想とする結果にはたどり着きません。
もともと、そのような結果はありえないからです。
いつも感じるでしょう。
「わたしはできる限りのことができただろうか?」
「わたしは手を抜いていないだろうか?」
目で見て取れる成果はないからです。
子育ての中の完璧主義は常に負い目と向き合うことになります。
人の厚意に甘えれば、
本当はどうするのが娘にとって良かったのだろう?
わたしが楽したいだけで、娘はそれを望んでいただろうか?
と答えのない、とても孤独な世界で迷い続ける、
または自分を責め続けることになるかもしれません。
この選択で良かったんだろうか?
日常のあらゆる場面でそう思います。
ご飯のタイミング、お昼寝の時間、食べたもの、
エアコンを使うかどうか、その日の着る服、
自分の子を前にした振る舞い…など、
無限にその葛藤は襲い続けるかもしれません。
完璧主義は「自分に罰を与える思考」と僕は思っています。
強くあれ
完璧にやれ
ぐずぐずするな
もっと努力しろ、
…などとは交流分析のミニ脚本と呼ばれるものです。
僕たちの幼少期に何気なく親からもらっている思考習慣であることが多々あります。
または、親の価値観に反発するために受け容れた思考とも言えます。
それは自身のセルフイメージの状態によって発現するようです。
僕は寛子をサポートしようと頑張ることがあります。
仕事と家事を両立させながら、自分をストイックに追い込んでいくことも可能です。
ある意味チキンレースに相手を引きずり込むような危険性もあります。
そこには、求道者のような危うい幸福感があるのですが、
この幸福感は人を追い込んでしまうことがあると寛子と暮らしていて思います。
僕が仕事をしながら、家事を完璧にこなしていくことで、
彼女に「あなたはダメな人、僕がいなければ何もできない人」
というメッセージを送ってしまっていたのです。
そんなつもりはない…と弁護したい自分もいますが、
追い込まれた寛子を見ていると僕はそのメッセージを発していたのです。
パートナーをどのような姿にするかは自分次第ということですね。
→過去記事「相手をどんな人にするかは、自分次第」
それを相手の責任にして、責めたい自分も当然います。
弁解、自己弁護、弁明したい気持ちはむくむくと湧き起こってきます。
それを自分の責任であると受け容れられる強さが僕にもあればと思います。
相手のために頑張るという言動が
いつの間にか相手を追い込むものになっている可能性がある。
それは実は「相手のため」ではなく、「自分のため」だからでしょうか。
シャドー(影)は僕に語りかけます。
「いかに自分が有能かを知らしめたいんだよな?
おまえとは違うんだと、やんわりと首を絞めたいわけだ?」
ジキル博士とハイド氏のような精神構造にややもすれば陥る可能性があります。
できるだけふたりを仲良くさせるために、
自分のシャドー(影)を受け容れながら、統合された人格でいたい…
もし、お互いにその人格に近づけば、
相手に虚無感を感じさせなかったかもしれないからです。
と完璧主義な僕たちふたりはお互いにそう思います。
いつかたどり着きたい境地…です。