自分らしく生きるのはわがままかしら(2)ゼロサムの囚われ

潤治の徒然草
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます。

AQUA MIXT 潤治です。

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「自分らしく生きることが世界への最大の貢献」
と綺麗な言葉があります。
自分らしく生きること、魂が望む通りに生きること、
魂が喜ぶ選択をすること、自らを解放し生きること、

それらは周りの人たちを自由にすることにもつながります。
など、天使のメッセージには、たまに
KY(空気の読めない)なものがあるように僕には思えます。
レシピの知らない料理を作らされるような気持ちです。
牡蠣とほうれん草のラザニアの出来上がり写真を見せられ、、
「このスープ、出汁は何を使っていると思う?」
「ある調味料を使わないとこの味は出ないんだよね。何だと思う?」
「味の決め手はある野菜の煮汁なんだ。何だと思う?」
「さぁ、作ってごらん!」
いきなり真実を突きつけられて、
後は見よう見まねで真似してごらんと言われても、
それを人生に活かすために、どういう人生のレシピが必要なのか
分からない時も、途方に暮れる時もあります。

「自分らしく生きることが世界への最大の貢献」
と思って、実践していると他人から
わがままだ!自分勝手だ!迷惑だ!
あなただから許されるのよ!あなたはずるいよ!
誰かを犠牲にしていること分からないの?
と言われ、自分らしく生きるなんて面倒で、厄介なことなのではないか?
と思ってしまうかもしれません。
現に寛子が自由に楽しそうにしていると、
「あなたが軽い選択をすると、誰かがその重さを引き受けるんだからね!」と
相手に罪悪感や後ろめたさを生ませようとする僕がいました。
寛子にとって、僕はとても面倒で厄介な足を引っ張る存在だったのです。
自分らしく生きようとする人の周りにはこういう人(→潤治)がいます。
茶茶夫(ちゃちゃです。
※「茶茶:妨害。他人の話の途中で,横から入れるひやかし気味の冗談をいう。」
寛子が「わたしにとってその選択は軽い?重い?」と言い出すと、
ちょっとちょっとと茶茶夫の邪魔が入ります。
誰かが幸せになる時、誰かがどこかでその分の不幸せを引き受けている…
「陽」のあたる所、必ず「陰」があり…、
幸福のある所、必ず反対側に不幸な者がいる……
「幸せ」と「不幸」は神の視点から見ればプラスマイナス「ゼロ」!
(「ジョジョの奇妙な冒険 スティール・ボール・ラン」
ファニー・バレンタイン大統領の言葉より)
ゼロサムの囚われは、
僕の寛子への姿勢に大きく影響していました。
※「ゼロサム:ゲーム理論に由来する言葉。総和がゼロであるの意
ある社会やシステム全体の利得と損失の総和はゼロであり、
一方が利益を得れば必ず他方が損失を出すということ。」
自分らしく生きて、幸せを感じることは、
誰かを牢獄に閉じ込めて、不幸にするのでは?
という囚われです。
また、そこまで言わなくても、誰かに迷惑をかけてしまっているのでは?という
後ろめたさ、罪悪感でしょうか。
僕は自分らしい人生を生きると言っておきながら、
寛子がより自分らしい方向に舵を取ることを妨害する
というアホな状態を体験しました。
その発端になった記憶は、中学生の頃、受験で友人の言った言葉です。
「オレがこの学校に落ちると誰かが合格するのかなぁ?」
今ではそれが御門違いな発想だと思いますが、
(何、格好つけてやがる!と当時の彼に言いたいw
っていうかお前の学力の無さを綺麗な言葉で書き替えるな!wと。)
それは社会に出るほど強化され、僕のある思考癖になりました。
ようやく、スピリチュアリティを扱い、仕事にしていく中、
その思考癖、観念は外れたと思っていましたが、より違う局面で発現したようです。
ありがたや、うらめしや…。
ゼロサムの囚われ、あなたにはありますか?
続く…
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