自分らしくあるために対峙するかもしれないもの

魂の使命・人生の目的

先日、娘の入園式に豊洲まで行ってきました。

我が家から電車を使って早朝から豊洲に向かうなんて想像しただけでも氣が遠くなりました。

車で行くにも、当日、入園式に間に合うように家を出ることになりますから、朝の慌ただしさを思うとそれも氣が遠くなりました。

いっそのこと、入園式は参加しないでいいのでは?と思うほど面倒くさくなってしまったのです。

そこで、豊洲近くに前泊して朝はゆっくりと向かおうということになりました。

前日入りして、お台場で遊び、ホテルのスイーツビュッフェを堪能し、普段はしない夜遊びをして遅くに眠りにつくことになりました。

当日は入園式と言いながら、僕は前日からの快適さを優先し、Gパンにフリース…。

僕が心地良く、穏やかであること、それが全てです。

そのために、残念ながら、常識や慣習などと対峙しなければならないこともあります。

周りの人たちと違うことをするくらいなら、我慢して周りと合わせていた方がよほど楽ということもあるかもしれません。

自分にとって「軽い選択」をオススメしますが、その後にやってくるかもしれない「周りのとのギャップ」には、何かしら揺るぎない自分を持っていることが試されると僕自身は感じています。

自分にとって軽い選択が周りの人たちには、一時的な不快感、誤解、嫉妬や中傷となる可能性はあります。

そのための周りとのコミュニケーションも必要になってくるでしょうか。

そして、周りとのギャップによる後ろめたさや罪悪感、面倒や不快感を感じるくらいなら、大衆に迎合していたほうが良いのでは?という自己への猜疑心がむくむくと湧き上がってくるかもしれません。

小学生の頃から、テストの答え合わせで「水本くんの答え、合っていますか?」と先生が言い、僕以外のクラスの皆がそれに「合ってまーす!」と応えるシステムで育っている僕は、すでに調教済なので、「違うこと」にひどく敏感で怖れを抱きます。

あの授業システムはすでに「調教」のひとつだったのかもしれない…。

そして、積極的に「違わないこと」に情熱を傾けることもあります。

周りとの同じことをする快感もあります。仲間意識なのか、帰属の欲求なのか…。

1986年、映画「トップガン」が流行った時も「MA-1」というアメリカ空軍用規格のフライトジャケットの一種のまがい物を何となく皆が着ているからという理由で買い、今では見ることのないケミカルウォッシュのタック付きのジーパンを履き、街を闊歩していましたから。

「本物」のMA-1が着たいと横須賀まで買い物に行った自分もいましたから。
今考えると怖ろしくダサく、黒歴史です。

みんなと同じことをしていた方がよほどストレスがないかもしれません。みんなと同じことをしているという安心感はありがたいことです。

しかし、本当にそれで自分の魂が喜んでいるか?と自問し始めると迷い出すかもしれません。

自分にとって軽い選択が誰かの重いにつながるかも?迷惑をかけるかも?多少の我慢は人生につきもの?

このテーマはいつもアクセス・バーズ講座ではテーマとして取り上げます。

「魔法の夫婦円満セッション」でも取り上げます。

自分らしい人生を生きるなんて面倒臭くない?w

相手に依存せずに自分を生きるなんて面倒臭くない?w

責任転嫁せずに自分で請負い、生きるなんて、正直、しんどくない?w

でも、その一時の不快感を超えると見える世界はあると思っています。(僕だけ?)

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