先日、家族でスキー旅行に行ってきました。
一泊二日の「雪遊び程度」という名目で行ったのにもかかわらず、娘の要望もあり、長いリフトに乗って山頂近くまで登り、なかなかの斜面を滑ることになりました。
初めてのスキーということで、好奇心が勝って山頂から初心者向けの緩やかな斜面を滑ることになった娘の小葉ですが、自分の思い通りにならない操作不能感に驚きと悔しさを感じたようです。
自分の思い通りにならない悔しさとそれに伴う怖れも湧き起こってきたようです。その日の夜は、ママの寛子に「もっと滑れるようになりたい、もっとスキーしたい。」と泣きながら訴えていました。
その真摯な氣持ちに応えるべく、2日目、僕と寛子は「さぁ、スキーだ!」という氣持ちでゲレンデに出たら、小葉は何するでもなく、うだうだと雪を触っていました。いつまでもスキーをする氣配はなく、ソリで遊んだり、他の子どもたちと雪で遊んだりと2日目はほぼ終わりました。
好奇心を怖れが追い越していった娘の心の中をうかがって胸が痛くなりました。
「怖れ」を知ってからの挑戦というものが人生の醍醐味だと僕自身は思うからです。
「勇氣」とは 「怖さ」を知ることッ! 「恐怖」を我が物とすることじゃあッ!
―ツェペリ男爵「ジョジョの奇妙な冒険」荒木飛呂彦著
自然界の成長曲線は、一旦下降し、そこから二次曲線のように上昇すると僕自身は思います。この試してみたけど、うまくいかない、無様、人から悪く言われる(と思い込んだ)、恥ずかしい、悔しいという感情が下降する時に味わいます。
その期間をどう過ごすか、どのような姿勢で対峙するかでその後の上昇が始まるというわけです。
その期間を誤魔化すにはたくさんのツールが世の中にはあります。
あの葡萄は酸っぱかったという「葡萄と狐」の物語のように合理化することも人生には多々あります。それは自分に言い訳をする人生であり、自分に嘘をつき続ける人生だと思います。自分自身に「シャドーの幻(怖れの幻影)」を付き添わせることになると言えるかもしれません。
「怖れ」「未知の領域」を切り開けるかは人生のテーマのひとつです。
娘の分かりやすい言動に、僕自身を内省することが多かった今回のスキー旅行でした。
若かりし頃、酔った勢いで過ごした女性との夜を経て、2回目のデートに誘うときの「怖れ」と言ったら、ビビりまくりでした。
「勘違いしないで。」
「彼氏にでもなったと思わないでよ。」
「ノリでしょ?ノリ。何本氣にしてんのよ、あはは。」
「あなただって楽しんだでしょ?それでいいじゃない?」
こだまでしょうか?
いえ、「シャドーの幻(怖れの幻影)」です。
金子みすゞさんにも言われかねないこだまの数々が2回目のデートに誘う時に僕を襲いました。
「怖れ」があるから、人生は何倍も楽しいと思いますが、渦中にいると不快ですw
もう少し、楽に楽しめるためにはどうすれば?
と問いかける毎日です。