学生時代、とても仲の良かった仲間がいました。
自分らしく生きよう、自分の人生を生きようとした時、いつの間にか疎遠になっていきました。その時に思ったのが、人生を生きようとする同志ではなく、「カラオケ友達」「飲み友達」だったのでは?ということです。
確かにかけがえのない時間を共有した友人たちでした。
しかし、僕自身は裸のつもりでしたが、何枚もの着ぐるみを着て、仲間と交流していたのかもしれません。思えば、僕は嘘つきで不義理で失礼な男でした。それがあたかもありのままの自分であるように振る舞っていたのですから。
その嘘を受け容れ、自分に嘘をつかないように「自分はこういう人間です!こうして生きたい!」と宣言して生きるようになると、本当の意味で引きあう人たちが変わっていきました。昔の仲間とも、また違う関係になっていきました。
当時、何となくの着ぐるみを着た者同士の交流が、いきなり真剣を交えるような裸の関係になろうとするのですから、僕の周りにいたそれまでの友人たちは驚いたことでしょう。僕にそのつもりはなかったとしても、周りからはそのくらいの衝撃があったように思います。
「水本、急に、どうした?」というところでしょうか?
自分らしく生きようとした時、周りの反応で「隠してきた自分」を発見できるように思います。
僕が心理カウンセラーになりたい、スピリチュアルなことを扱って生きたい、という各ステージ毎にその「自分」を周りの反応から発見してきたように思います。
本当は何を求めているのか?
誤認した情報や価値観、思考を使ってどれだけ「自分を生きないこと」を無意識にしてきたのか?
周りの反応と、自分の思い描いた展開とのギャップがそれを教えてくれることがあります。
そのギャップを予想していない時、僕はとても戸惑いました。
皆が僕から遠ざかっていくからです。(と思えました。)
周りの遠慮や疎遠になっていく姿を僕自身が創り出しているのに、それにひとりで落ち込んだこともありました。
「自分らしく生きるとか、嘘嘘ぉ~!前言撤回!冗談で~す!」と言ってしまいたくなる自分もいたりして…。
それほど、僕の描いた「自分らしく生きること」において、「周りの人たちの反応」が違い過ぎました。もっと応援してくれると思っていたから。
しかし、それは僕が創り出してきた「嘘をついている自分」ですから、その僕が信頼されるわけもなく、自業自得でした。
周りの人たちが期待する自分を勝手に僕が創り上げて、それを演じることで安心していたということでしょうか。そうしていることが僕の「帰属の欲求」を満たしてくれているような思い違いをしていたわけです。
僕が嘘をついていた分、周りの人たちの応援の形は違いました。
あきらかに僕の変化を否定するようなものです。
怪しい、騙されている、一時的な麻疹のようなもの、失恋か?
―周りの憶測は残念ながら僕の耳に届きました。
自分らしく生きたいという風呂敷を広げてしまったのですが、また畳むこともできました。
畳んで、何も無かったようなふりして、他の自分らしく生きようとする人を否定することで自分を肯定していくこともできました。
しかし、それが出来ないくらい大風呂敷を広げてしまったのが、僕の幸運だったのかもしれません。
ライフパーパスを生きようとし、自分の才能を発揮してみようとすることはあります。
しかし、周りの人たちの反応で直ぐに止めてしまう場合もあります。
自分の創り出した「怖れの幻影」に、自分でうちひしがれるわけです。
「お化けなんていないさ!」と歌っていた小学生の頃が懐かしい…。
そして、その怖れの世界を肯定し、過去の希望を否定して生きるかもしれません。
そのような僕も、それから十数年が経ち、ありがたいことに、一時の周りの怖れは、
周りの人たちの怖れを和らげるためにも、僕自身が「
誰もが、変化しようとする人に少しばかり驚いてしまうだけなのですから。
その驚きが本来の「応援したい」という氣持ちを遅らせるだけです。
残念ながら、自分の人生を生きようとすると、人が怖れで立ち止まってしまう領域に先んじる人になっていくわけです…。
そうして、たくさんの人の「応援」を受け取って生きていくことになります。(と僕は思いますが…?何か。)
ライフパーパス個人レッスンは、人生という大海原に、地図とコンパスを与えてくれるレッスンです。