中学生の頃、僕は勉強ができました。
…というよりも
- 暗記が得意
- 言われるがままに従うことに疑問を持たなかった
- 支配・管理されることに抵抗がなかった
- なぜ、勉強するかなど考えなかった
- みんながやっているからという理由で勉強できた
と言い変えることができるでしょうか。
尾崎豊「卒業」「15の夜」のように、不当な権力や世俗的風習に反抗する気概は無かったわけです。
そうして、受動的な勉強方法は高校生になって通用しなくなり、一気に落ちこぼれました。覚えても覚えても、覚えることは多く、僕は混乱してしまったのです。
何とか、みんなが行っているからという理由で、進学したかったし、そうしないと人生で決定的なことを選択しなければならないという怖れが襲ってきたのでした。
みんな一緒、と思っていた中学・高校というレールが急に行き先がそれぞれ変わっていき、そこらにある職業や学校を選ばなければならないと迫られるような恐怖でした。
とりあえず大学に行ってモラトリアムな時間が欲しいし、でもそのための勉強なんてやる気がでないわけで。
僕の勉強方法は例えば、このような感じでした。
英語なら、受験に向けてまずは英単語を数多く覚えようとするわけです。
しかし、実際の試験問題では、覚えた意味とは違う意味で使われていたり、試験によく出る単語と英単語の参考書にズレがあることに後から気づいたりすることも多いわけです。
志望校も決まっていないし、ある程度の学力がついてから、志望校選びをしようと思っていました。
ですので、模擬試験もあまり受けず、自分の何が強みで、何が弱いのかも直視せずにいました。
「ある程度の学力がついてから…」
「志望校が決まってからで…」
という僕の…
自分を納得させる「人生の遅延策」です。
今の自分を直視させられるのが怖かったのです。
そして、受験に合格するためには1日5〜10時間ほど勉強したという先輩コメントを本などで見ると、紙に「1日5時間勉強」と書いて、机に貼り出すのです。
いつの間にか、その自分への誓いは義務のような、罰のような時間になりました。
1日5時間勉強したとその内容にかかわらず、自分を上手に騙し続けました。
きっと興味を持って、積極的に勉強する1時間に劣る僕の5時間の受動的な勉強時間だったでしょう。
誰かの成功例を上っ面だけ真似るという愚行も、結局は「僕には向いていない」「やってみたけどダメだった」という自分を納得させる挫折を作り出したいだけでした。
この受験勉強のやり方は、そのまま僕の人生への姿勢につながっていきました。
何の勉強をするか?よりも、大切だったのはきっと、どんな勉強の仕方をするか?だったのだろうと今では思います。
勉強という機会を、自分を磨く楽しさに使えば良かったのに、僕は単にみんながやっているからという理由や、落ちこぼれたくないという怖れや不安の解消、大学に行っといた方が就職に有利という誰かの価値観に踊らされていただけでした。
人生のあらゆる機会をどう活かすかは、僕のその機会に対する姿勢なのだろうと今では感じます。
勉強のやり方という、あまり人生において僕が重要視しなかったものは、大人になってからの予行練習だったのかもしれません。
…残念ながら、周回遅れで僕は今、それを学んでいます。
過去を、自分を責める理由にせずに、前進する伸びしろに使いたいところです。