昨日は、寛子の達成感についてのメルマガ記事、そして、
僕のブログ記事に多くの反響をいただきました。
→潤治の記事「あなたの『頑張る』『達成感』は何の表現ですか?」
偽りの思考を自分のもののようにして、人生にあらたな感情ゲームを用意するなんてナンセンスです。
静けさの中にある心の声に従いたいものです。
その練習やセンスは、ライフパーパス個人レッスン準備編で深めます。
人生の可能性を感じたい方は深めてみるのも楽しいですよ。
さて、達成感という視点で僕が経てきた男女関係を考えた時、
思春期の恋愛はまさにこの達成感の中毒患者でした。
そして、そのまま学生時代に突入するのですが…。
夏休みに「この夏休みにキスをする!」と仲間うちでコミットメントしあっては、デートに臨みました。キスするために、デートコースを考え、台詞を覚え、仲間内で作戦を練り、実際に女の子に電話をして、デートに誘うわけです。ラジカセを傍に置き、BGMはオフコースの「君が、嘘を、ついた」ですから、選曲に クセがあったかもしれません。
デートにこぎつけてふたりで話している時も「キスをする、キスをする、キスをする!」と心の中で繰り返し、ふたりの間にちょっとした「時間が飛ぶ瞬間」がやってくると、もう前のめり状態で相手に頭突きする勢いでした。
以下、キスをするためのチャレンジングの一例です。
- 「あ、目にゴミが…。」と言って相手の目をつぶらせてからの不意にキス。
→目にゴミが、と言う度に彼女は警戒していました。 - 出逢い頭に衝突してそのまま倒れこんじゃってキス。
(協力者が必要「水本、来たぞ!来たぞ!準備良いか?」)
→廊下の曲がり角で待ち伏せして何度も体当たりして泣かれました。 - じゃんけんポン!あっち向いてホイ!からの接近戦キス。
→意識が勝負に向かず、じゃんけんで何を出すか読まれまくりでした。
ずうっとグーしか出さないからね。 - 「あ、熱あるかも?」からのおでこくっつけてキス!
→おでこに手を当てられて「ないじゃん!」で玉砕。
もう、本質的なところじゃない「ゲーム(遊戯)」を楽しんでいるだけでした。
いやいや、人生に置き換えたときに「笑えない自分」が今もいます…。
しかし、それはギャンブルにも似ていて、妙な達成感への意欲がわき起こってくるのです。
結局、その当時の僕は付き合った女性たちの「人」を見ていたのではなく、
僕の達成感に協力してくれる人を探していただけです。
完全な「ベクトル自分向き」人間でした。
達成感で衝動的な行動を取ろうとする場合、自問しています。
「それは誰のため?何のため?何の代償行為?僕の周りは幸せになる?」と。
そして、心で答えます。
「あらあら、それは僕だけのため。
僕の充実感のため。自信の無さを消し去りたいから。
周りの人たちは疲弊するか、疲れ果てるでしょうね。
みんな優しいから付き合ってくれるけど。」
これは別に恋愛に限ったことではありません。
人生の目的を生きようとする時、ハマる可能性があると僕自身は思います。
やりがい、達成感、使命感、役割や義務感、妙な衝動、焦り…など。
結局、僕のキス騒動は、全く予測をしていない関係性の中で終息しました。
結局、「キスをするぞ!」という姿勢がエネルギー過剰なんでしょうね。
この人と話していると楽しいなぁと思いながら歩いている下校中にキスが通り過ぎていきました。
もっと、暗闇の中で、時間が止まって、見つめ合い、レモンの味がして…
ではなく、予想しないところからキスはやってきました。おめでとう!
達成感ではなく、その瞬間の喜びや楽しさを味わっていることが
幸せの香りを感じ取る秘訣のように思っています。
こうあるべきだ、こうしなくっちゃと思っている時はキスはやってきませんでしたから。
この後、力の抜けた恋愛から「成し遂げようとするとキスは遠ざかる理論」を心に刻みました。
そして、「今を生きる」と言えば後付けですが、
その人との瞬間瞬間を楽しめるかどうか、そのゆとりを信じられるか、誰のためのキスなのか?
を考える機会が増えました(バカでしょ?)。
出逢い頭に衝突してのキスとか論外でした。
達成感ではなく、その瞬間瞬間の香りを感じ取れればいいなと思う今日この頃です。