コンプレックスを受け容れた後にやってくる「かけがえのない大切もの」

潤治の徒然草虐待

完璧な人間はいないと僕自身は思っていますが、皆さんはいかがでしょうか?

先日、コンプレックスについて、AQUAMIXTのオンラインサロンでデスカッションしました。

周りの人はあまり気にしていないのに、自分ではそれがとても気になってしまうことってありませんか?

自分だけがそのことを誇張し、重要視して、時にはひとりで傷つくこともあるでしょうか。

それを受け容れずに、隠そうとすればするほど、他人にどう思われているか気になり、受容される自分をイメージしにくくなるかもしれません。それとも反転して、違う自分を演じるでしょうか。今は見せかけをあたかも本物のように見せる装置がたくさんありますし…。

さて、

コンプレックスや欠乏意識は何のためにあるのか?
なかったら、皆、もっと幸せになれるでしょうか?
どんな学びを僕たちは必要としているのでしょうか?

僕たちは何かしらの形で人に受け容れてほしい、認めて欲しいと思う傾向があると思います。(僕だけ?)

その認めて欲しいという感情をクリアしていく工程で魂は磨かれるように感じます。

認めて欲しいと思う感情が人間特有のものだとしたら、そのためにどうクリエイティブにその欲求を解決しようとするかが霊性を高めていく為に必要なものなのではないか?と僕自身は思います。

認めて欲しいという氣持ちを自分自身の身体、もしくはインナーチャイルドがあなたに訴えていたら、どうでしょうか?

コンプレックス、欠乏意識を持っている自分に「与える」わけです。

何を?

そのやり方はさまざまでしょう。

  • 自分に労いを与える
  • 自分に感謝を向ける
  • 自分で自分を虐待していることに気づく
  • 身体やインナーチャイルドに謝罪する
  • 自分の身体に優しく触れる
  • 悪感情(と思っているもの)を出しまくる
  • 自分の直感を信頼する

などでしょうか。

自分とコミュニケーションをとっていくうちに、とろうと意識していくうちに、「かけがえのない自分」を見つけることができるでしょう。

他にはない、自分だけの素晴らしさを見出すことになります。

その自分を愛そうとする姿勢が、それにそった現実を創り出します。

それは誰かと、またはものと深く付き合ったみたことがあるなら誰にでも感じることではないでしょうか?
かけがえのない大切なものにしていくのは、僕たちのそれとの関わり方です。

その関わり方が、「自分と」の場合、上手にできないでいるだけです。
それは外界からの阻害するものも多いからでしょうか。

何気ない日常の「自分との関わり方」が、かけがえのない大切な自分を創り出していくと感じてみても良いのではないでしょうか?

そして、それはもうひとつ、ふたつと、「かけがえのない大切なもの」を創り出していくでしょう。

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