人を好きにならなかったら傷つくこともなかったのに、
惹かれてしまうはなぜなんでしょうか。
人を好きになることでもたらされるものは何でしょうか…。
中学1年生の時に、僕はクラスメイトの女の子を好きになりました。
彼女はいつも教室の後ろの席に座っていました。
特に女の子同士でおしゃべりするわけでもなく、
ひとりで物静かに本を読んでいました。
英語の得意な子で、単語カードを休み時間にめくっていたり、
期末用のノートを作って勉強していました。
ノートもあまりとらない僕には新鮮に映ります。
男子の友人と教室でバカ騒ぎをしている時も、
彼女の読書している姿が気になりました。
何だか、バカ騒ぎしている自分が情けなく感じるようになります。
彼女を見ているとひとつひとつ丁寧に1日1日を生きているように感じて、
日々刹那に生きている自分がとても小さく、カッコ悪く映りました。
「僕、何しているんだろう? 彼女のように強くなりたい。」
それから本を読むようになり、勉強も一生懸命やりだします。
単語カードも作って、教室でめくったりしていました。
「少し、彼女に近づけたかな?」
そんな風に彼女を想いながら、勉強していくことはこの上なく楽しい時間でした。
家で勉強している時も、今頃彼女も勉強しているのかなぁなんて思ったりして。
しかし、嫌な感情と向き合うことにもなります。
その彼女が、男子と仲良く話しているのを見たりすると嫉妬を感じるのです。
「彼女、あんなに楽しそうに笑うんだぁ…」
僕にはあんな笑顔見せないのに…
何で?何が僕に足りないんだろう?
と自己嫌悪に陥ります。
自分の欠乏意識に気づきます。
→何が足りないんだ地獄。
そんな楽しそうにしている彼女に怒りまで感じてしまって、
さらなる自己嫌悪スパイラル。
こんな気持ちになるんだったら、彼女のことを無視すればいいんだ!と思い、
しばらく無視してみるも、彼女を好きでいる自分の気持ちを抑えるのは難しく、
余計に不安や嫉妬を感じてしまいます。
無視すればするほど、感情を感じないようにすればするほど、
彼女の一挙一動に敏感になっていく自分がいました。
人を好きになることで、自分の中に欠乏意識があることに気づきます。
その欠乏意識に気づけたから、
僕が彼女を想い自分を高めていこうと思えたのかもしれません。
彼女に出会わなかったら、自分を高めていこうだなんて思えなかったでしょう。
おかげで、成績もよくなり、勉強する楽しさ、読書する楽しさに気づけました。
自分の中にある欠乏意識に触れたくないために無感情になることもできます。
彼女のことを無視して感情に蓋を閉めてしまったように。
「好き」という気持ちを感じないように生きることもできます。
これは大人になっても同じですね。
自分の中にある嫉妬心、競争意識、差別心、貧困意識…
これらのものが、人を好きになることで、あぶりだされるように感じます。
しかし、それが、人間として成長する機会を与えてくれます。
なぜ、それら気持ちがあぶりだされたのか、
そして、痛みを感じるのか、その痛みはどこから来るのか。
大人になればなるほど、その痛みは大きいのかもしれません。
思い出したくないこともあるでしょう。
それを観じることで学びや成長があるように思います。
蓋を閉めずにその機会を感じたいです。
あなたには蓋を閉めて忘れていた感情はありますか?
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