マスターは東儀 宗介(とうぎ そうすけ)、かつて天使だった頃の名は、メネフィール (Menephiel)。
仕事帰りや週末に通う常連OKは、小鳥遊 紬(たかなし つむぎ)、28歳。中堅デザイン事務所のグラフィックデザイナー。
古い時計の針が午後七時を指す頃、『刻詠珈琲店』の扉が静かに開いた。仕事を終えた紬が、いつもの席に腰を下ろす。宗介は黙って、彼女のためのコーヒーを淹れ始めた。
「マスター、また質問があるんですけど……。いいですか?」
「もちろんですよ、どうぞ。」
「オラクルカードって、天使とか妖精とか女神とか、いろんなテーマがあるじゃないですか。この前は絵柄で選べばいいって教えてもらったけど、テーマごとに何か違いってあるんですか?」
紬はスマートフォンの画面を見せながら尋ねた。
そこには、様々なオラクルカードの画像が並んでいる。
宗介はちらりと画面を見て、ゆっくりとカップを磨く手を止めた。
「それぞれのテーマは、同じ山の頂上に向かう、違う登山道のようなものですよ。」
「登山道?」
「そう。頂上は同じでも、森の中を通る道もあれば、岩場を登る道もある。川沿いを歩く道もありますよね。どの道を選んでも、最終的には同じ場所にたどり着きます。でも、その道程で見る景色や、体験することは違っています。」
宗介は棚から三つの異なるカップを取り出し、カウンターに並べた。
「天使系のカードは、この白いカップのようなものです。純粋で、清らかで、誰もが親しみを感じるのではないでしょうか。天使たちのメッセージは優しく、愛と希望に満ちていて、心が疲れている時、癒しを求めている時には、特に響くと思います。」
紬は白いカップを見つめながら頷いた。
「じゃあ、妖精系は?」
宗介は緑色の、少し変わった形のカップを指さした。
「妖精のカードは、このカップのように遊び心があります。自然のエネルギーに満ちていて、時には茶目っ気たっぷりのメッセージをくれます。創造性を刺激したい時、子供の頃の純粋な気持ちを思い出したい時に、良い相棒になってくれると思います。」
「なるほど……女神系は?」紬は続けた。
最後に、宗介は深い藍色の、重厚感のあるカップを手に取った。
「女神のカードは、長い歴史と伝統を持ちます。様々な文化の女神たちが、それぞれの知恵と力を授けてくれるのではないでしょうか。自分の内なる強さを見つけたい時、女性性や男性性のバランスを整えたい時に、深い洞察を与えてくれると思いますよ。」
紬は三つのカップを順番に見比べた。
「でも結局、どれを選んでも、得られるものは同じなんですか?」
「得られるものは同じです。自分自身への理解という宝物ですね。ただ、その宝物を見つけるまでの道のりが違うということですね。天使は優しく手を引いてくれる、妖精は楽しく踊りながら導いてくれる、女神は威厳を持って道を示してくれる、そのような感覚でしょうか。」
宗介は、先ほど煎った豆で淹れたコーヒーを紬の前に置いた。
「大切なのは、今の紬さんがどんな導きを求めているか、ですよ。」
「どういうことですか?」
宗介は、紬の心に触れるような言葉を紡いだ。
「仕事で疲れ果てているなら、天使の優しさが必要かもしれない。新しいアイデアが欲しいなら、妖精の遊び心が助けになるでしょう。自分の力を信じたいなら、女神の強さが支えになります。」
紬はコーヒーを一口飲んで、考え込んだ。
「私は今、どれが必要なんだろう……。」
「それを見つけるのも、紬さんの旅の一部です。焦らなくても大丈夫です。心が求めるものは、その時々で変わっていきます。今日は天使に惹かれても、明日は妖精に心が動くかもしれない。その時の気持ちや感覚を大切にするといいですよ。」
「テーマは単なる入り口にすぎなくて、どの扉から入っても、最終的に向かう場所は同じです。紬さんの内なる声に耳を傾けることが大切なんだと思いますよ。」
「なんだか、選ぶのが楽しみになってきました。」
「いいですね、その気持ちが大切です。楽しんで選んでみる。そうすれば、カードも紬さんに楽しく応えてくれますよ。」
紬は残りのコーヒーを飲み干し、満足そうな表情を浮かべた。
窓の外では街灯が灯り始め、『刻詠珈琲店』の中は、いつもの穏やかな時間が流れていた。
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