積極的不登校と自己肯定感
「小学3年生になったら、学校やめる!(絶対)
※そのまえかも…」
と娘が宣言したのは、小学2年生の夏。
その宣言をすると、週に3回、2回、1回と学校に行く日は減っていきました。
それと反比例するように、家族で話す時間や笑顔は増えました。
そして、娘の自立心も大きくなったように感じます。
「わたしの氣持ちを優先してくれてありがとう。」
自己肯定感というものは、こうした「わたしの氣持ちを優先してくれた。」というものから、育まれるのだろうと思います。
学校に行かないという選択
「いつ、学校やめてもいいんだからね。」と、
まるで、父親である僕を気遣っているように、小学1年生の秋に、娘は自分の氣持ちを話してくれました。
「え? 僕が行かせているのか?」
僕自身、学校はひとつの選択肢と思っていながら、
自分が「考えもせずにいた案件」に向き合うことになったわけです。
一方、娘はとても活き活きと、朝のゆっくりした時間を過ごしています。
そして、娘は「学校と縁が切れて嬉しい。」と毎日笑顔です。
実際は、縁が切れたわけではありませんが(ここからは親と学校の関係でのお話)。
(文部科学省HP「就学義務履行の督促」より)
…にも関わらず、世間では、マイナスのイメージをつけて同調圧力をかけるわけです。
「かけられている」と思うのは、親の僕自身の弱さですね…(苦笑)。
「ただ、学校に行かない」が、「不登校」とすげ替えられて、
「家庭に何か問題がある」「正常じゃない」「虐待」になってしまうことがあります。
そのマイナスのイメージをはねのけるほどの意志は、なかなか修練が必要ですね。
家族で向き合う案件のおかげで、家族の結束も高まりました。
そのような中、娘は、全く意に介さないで、「自分軸」で生きています。
イヤイヤ期 娘が2歳7ヶ月の頃
イヤイヤ期は、いつの間にか終わっていました。
彼女のこだわりをできるだけ肯定することを優先したからだと思っています。
大人からすれば、なんで?なんで?どうして? というその行動に、娘の「わたしはこう思っている」という氣持ちがのっかっています。
その主張は、自分自身でもあります。
主張を肯定することは、彼女を肯定することにつながります。
ですから、
大人が良かれ、と思って言うアドバイスは、ほぼほぼ意味を成しません。
「こうしたほうがいいじゃない?」
「なんでこうしないの?失敗するに決まっているじゃない?」
「食べ物を粗末にして、駄目でしょ?」
「お風呂に入らないと汚いからね。」
「疲れているんだから、早く眠ろう?」
「お尻丸出しで恥ずかしいでしょ?」
何の意味を成さない単なる、僕の自己満足的な価値観のおしつけは、僕と娘の間に溝を作ります。
「正しさ」ではなく、子どもの氣持ちを優先させようとする「優しさ」に重きを置きたいわけです。修練が必要でした。
そのような意識から、徐々に関係は回復しました。
朝のお着替えは、「着替えたくなったら、教えてね。」と伝え、
僕自身の着替えや朝の家事を優先することにしました。
すると、そのうち、「着替えたくなったよ!お着替えする!」と声をかけてくるようになりました。
学校に行ってもいいし、行かなくてもいい
イヤイヤ期の娘に、どうして着替えをする必要があるのか?を彼女に考える時間を取らせていない自分に気づきました。
指示は、相手の力を奪う…
自分の未熟さを自覚する時でした。
一緒に考えよう、そう思えた時期でした。
お散歩も、彼女の行きたい場所、歩くペース、どうしたいのか?
娘が「わたしがしたいようにしたい!」という氣持ちを尊重すると、やがて、両親の言葉が彼女に届くようになりました。
食事も変なテンションで食べ物を投げたり、遊んだりすることもありました。
大人側も、反応して不機嫌になったり、怒っていたのですが、表出した言動ではなく、違うところに原因はあることに気づくようになりました。
「一緒に考えよう。」
「今の氣持ちを教えてくれる?」
わたしもパパとママのようなお椀で食べたい、一人前を自分だけで食べたい、
取り分けて欲しくない、自分で食べたい、放っておいてよ。
彼女の本意はそこであり、
どう主張して良いのか分からなかっただけでした。
こういうやりとりの中で、娘の主張は親のもとに届くようになりました。
そして、僕自身もまっすぐに伝えてくる彼女の氣持ちに応えるだけでいいのだと肩の荷が下りました。
親のペースや、こうあるべきでしょ?というものさし(観念、思い込み)で彼女を計ることは、ある意味失礼なことだったのだと感じます。
子どもの「侵して欲しくない領域」を理解するには、親である僕が「待てるゆとり」を持てるかどうかにかかっていると僕は思います。
待つという意識すら、吹っ飛ぶくらいに、大人は自分に自信を持って、人生を歩みたいと思うのです。それが、きっと娘のためになるのでしょう。
僕たち大人の「常識」「思い込み」「観念」にやんわりと向き合わせてくれる娘です。