いつもお読みいただき、本当にありがとうございます。
AQUAMIXT 潤治です。
娘の小葉がやってきて寛子とのパートナーシップはより複雑により祝福に満ちた日々となっています。
祝福に満ちた日々にするか、逃避に満ちた日々にするかは自分次第と言えます。
複雑になった分、その状況や感情に向きあうことで
癒しや気づきなど人生の祝福を受け取ることが多くなりました。
学びの多いパートナーシップを人生で実現したいという
昔のアファメーションどおりになっていると言えるのですが、
予測と違うことはよくあることです。
パートナーシップがより複雑になったことでほんの些細なことでの気づきも多く、
先日は、時間についてのお互いの価値観をさらに深く理解しあう機会を得ました。
僕にとって時間は守るべきのであり、
時間への姿勢はその人の人となりを表すものだと感じていました。
寛子にとって時間は目安であり、計る手段のひとつであり、
時間への執着や「べき思考」はありません。
ですので、僕は遅れることを極端に嫌がり、
時間どおりに事が進むことを心地良く感じます。
その逆になるとイライラしたりもします。
高校生の頃、彼女が待ち合わせ場所に
時間通りにやってこないととても怒りました。
「時間を守らないということは、僕をないがしろにしているのと一緒だからね!」
「時間を守るって常識じゃあないの?」
約束の時間は守るべきである。
時間に遅れるべきではない。
僕の「べき思考」は他人を責める時は「常識」という正論になります。
正論を振りかざし、相手を打ち負かしますが、
本当に伝えたいことは当時、気づかずにいました。
これって常識でしょう?と僕が相手に投げかける正論は、
実は本当に伝えたい気持ちに気づきたくない防衛本能でした。
約束の時間は守るべきである。
時間に遅れるべきではない。
使ったものは元の場所に置くべきだ。
脱いだシャツは畳んでおいておくべきである。
食べた後の皿はシンクで水に漬けておくべきだ。
部屋の電気はこまめに消すべきだ。
お風呂はあまり間を置かずに次々と入るべきだ。
ご近所の方には挨拶をするべきだ。
あなたの「べき思考」、どんな些細なものも出してみてくださいね。
付き合う女性は「時間を守ってくれる彼女」になってくれるのです。
彼女たちが時間で不機嫌になる僕を見たくなかっただけなのですが、
僕は自分の正当性が受け容れられたとその「べき思考」を強化していきました。
約束の時間は守るべきである。
時間に遅れるべきではない。
残念ながら、この「べき思考」を強化してしまったために、
僕は本当の気持ちに気づけずにいました。
お付き合いした女性の優しさが僕のエゴを増幅させたということですね。
つまりは僕は彼女たちの優しさに甘えきっていたわけです。
僕がまだ幼い頃…、
母は化粧品の販売員をしていたので、
外をまわることが多かったと記憶しています。
おぼろげな記憶の中で、託児所に預けられて去って行く母を
泣きながら裸足で追いかけたことを思い出します。
母は説明しても意味が無いと思ったのでしょうが、
しきりにどこに行くの?と幼い僕は尋ねていました。
いつ帰ってくるの?とも。
その当時、僕は幼稚園や保育園に行かず、週に1度体操教室に通っていました。
身近に友達を感じられる良い機会なのですが、
他の子と話すこともせずに黙々と縄跳びや跳び箱をしていました。
預けられるので、母がいつ向かえに来るのかがいつも気がかりでした。
教室が終わって、子供たちが待機する場所で
いつものように本を読んで待っていました。
他の子のほとんどは待つこともなく、
迎えに来たお母さんに連れられて行きました。
その様子を見ているのは慣れたつもりでいましたが、
さすがに迎えに来るのが遅い時がありました。
教室のスタッフも何やら電話している様子で、
困っているのが分かりました。
「僕がここにいることは他の人を困らせてしまうんだ。」
そんなことをぼんやりと感じながら、
手に取った本に救いを求めるように読みあさりました。
しばらくするとホッとしたスタッフの顔と共に、
「潤治君、お父さんが迎えに来てくれたよ。」
「潤治君、お父さんが迎えに来てくれたよ。」
と僕に伝えに来てくれました。
泣きながら外に出ると
トラックの窓から父が顔を出しているのが見えました。
当時、父はトラックの運転手をしていて
その道すがら僕を迎えに来てくれたのでした。
父に寂しさから来る怒りをぶつけていたことを記憶しています。
いつ、迎えにくるの?
お母さんなの?お父さんなの?
待たされるのは嫌だよ、とっても寂しいんだよ。
抱きしめてよ、お母さん。
幼い僕にとって、自己存在を揺るがす出来事が度々起こり、
時間に遅れるくらい仕方がないという両親の気持ちを
僕は呑み込むしかありませんでした。
一言で良いから、
「ごめんね、怖かったね。ごめんね、怖い思いさせたね。」
と言って欲しかったのでした。
その言葉を聞けなかったモヤモヤの矛先が
僕が出会ったきた親しい友人、彼女、妻となっていったわけです。
人生を複雑にし過ぎました…。
僕の時間への「べき思考」は
僕がそうして欲しかった気持ちの違った表現に過ぎなかったのでした。
あの時の僕は、母や父に、
「必ず、帰ってくる時間を僕に伝えて。」
「いつまでに帰ってくるって約束して。」
「いつまでに帰ってくるって約束して。」
「僕はとても寂しいんだ。」
「僕はとても怖いんだ。」
と伝えたかったのでした。
アサーティブな姿勢になることで人生はシンプルになりますね。
僕が必死に守ってきた「時間」は、
あの頃の僕の思いを表現したかっただけでした。
分かって欲しかっただけでした。
あなたに「べき思考」があるとしたら、
そこにはどんなエピソードが隠れていますか?