小学生の頃、仲の良い女子がいました。
その女子は他の女子とも仲良くしていて、みんなに慕われていました。
僕もその子のことは好きでしたし、よく話す機会もあり、ずっと後に「友達以上・恋人未満」という関係だったかもしれないと思い返します。(小学生ごときが!?)
ある日、彼女が仲良くしていると思っていた女子がいじめにあうことになりました。
男子も数人、そこに立ち会うことになり、僕もその場にいました。
いじめにあう女子を囲んで、みんなでその子の嫌なところを伝え、詰問をしました。
僕の「友達以上・恋人未満」の彼女もその場にいて、その子に辛くあたっていました。
まるで別人のように陰険に詰め寄る彼女を見て、少なからずショックでした。
今思えば、いじめの空間でヒートアップして、過激な発言を自分じゃない感覚で言い放ってしまったと思いますが、当時はその黒々しい陰険さが彼女の中にあることを認められず、苦悩しました。
それから、僕は女子の人間関係構築方法を観察するようになりました。
「嫌われないようにする」
「仲が悪くならないようにする」
「いじめの対象にならないようにする」
「褒める代わりに褒められることを要求している」
などなど、女子特有なのか、本音と建前という言葉がしっくりくるような人間関係を潤滑に育む姿を目の当たりにしました。
そこには、抑圧された感情もあり、それがそのまま内なる暴力性につながっていくように思いました。
そう考えると、男子は力任せで、抑圧せずに単純だなぁと中学生の頃には思っていました。
その男子も大人になるにつれて、抑圧に慣れていくのですが…。
さて、女子の「仲が悪くならないようにするコミュニケーション」はその後の僕の人生に大きな影響を与えました。
仲が悪くならない、と言っている時点で動機は怖れや不安だと思います。
自分に嘘をつくコミュニケーションと言えるかもしれません。
逆に、「仲を良くしたい」「相手に興味ある」というコミュニケーションのために何ができるでしょうか?
それは「自分に嘘をつかないこと」だと僕自身は思います。
そして、自分自身とのコミュニケーションに穏やかで安らいでいることでしょうか。
自分の中が統合されていないと、外界に表出するコミュニケーションも、矛盾したものになるでしょう。
統合されていないことに自分に対する、不安や怖れがそのまま人間関係に投影されるでしょう。
その投影された怖れや不安に対して、自分を偽ったり、抑圧するなんてマッチポンプ状態もいいところです。
(マッチポンプ状態:マッチを擦ってつけた火を自分で消火ポンプで消す意)
自分の内側のコミュニケーションを取るために何が必要でしょうか?
それは自分への問いかけです。
- 「わたしは何がしたいの?」
- 「わたしは何になりたいの?」
- 「わたしは何が欲しいの?」
- 「わたしは何に傷ついているの?」
- 「わたしが本当に感じていることは何?」
- 「わたしの魂は何を求めている?」
すぐに答えの出ないと思える問いを持つことは気持ち悪いことかもしれません。
面倒臭いことかも…。
しかし、その一時的な落ち込みに耐えられるか?は人生を大きく変えていきます。
その落ち込みを経験するくらいなら、現状の我慢を選択する人もいるでしょう。
自分を偽らずに、問いを持ち続けること…。
誰かに仕組まれたオートマチックな人生から、自分中心のマニュアル運転に。