「頑張ることを手放す」という言い回しもスピリチュアル業界ではよく目に耳にします。
頑張ることを手放すと自己受容が進むという感じでしょうか。
だらしなくてもいいじゃない?ありのままのあなたでいいじゃない?等身大のあなたも素晴らしい。みんな違ってみんな良い!どんなあなたも完全な存在です。
どんな自分を受け入れるということはとても大切だと僕自身も思います。
自分自身を受け入れている人が周りに与える安心感は大きなものでしょう。
「あ、この人になら安心して話ができそう…。」と思ったことはありませんか?
反対に自分を認めていなかったり、条件ありきでようやく自分を認めることができていたり、そのせいで厳しい条件を自分に強いていたりする人もいます。
「あ、なんかこの人怖いな。あまり自分のことを話さないでおこう。」と思ったことはありませんか?
そういった人の周りに与える「圧迫感」を今回のテーマにしたいなと思います。
もちろん、楽しく頑張れている人もいます。当人は「頑張っている」というつもりはないかもしれません。
その姿は、集中している、没頭している、頑張っていること自体がとても楽しく見えるなどがあるでしょうね。
その姿勢は周りに勇気ややる気、元気を与えるでしょう。
やりたくないのに、義務や役割でやらざるを得ないなどの理由で自分に「頑張ること」を強いている場合、それは自分自身が我慢し、本当の気持ちを抑圧していくことになります。
それは思わぬ感情的な反応を生むかもしれません。イライラ、ピリピリとした雰囲気を醸し出して、周りに圧迫感を与えるでしょうか。
かく言う僕もその圧迫感を家族に与えてしまいます。
ひとつ例を挙げると、「定位置定管理」という僕の一人相撲です。
持ち出したもの、使ったものは元に戻すという社会人1年生の時に嫌というほど上司に叩き込まれたことです。
とてもうるさく仕込まれましたし、それが社会人になるために必要な感覚だろうと当時は感じました。
なるほど、定位置定管理の効果は仕事で活かされ、スムーズに仕事を進めるためには必要不可欠なルールだと僕自身がどんどん重要視していきました。
さまざまな価値観を持った仕事場での作業効率を上げるためには必要不可欠なものだと思っています。
しかし、今では、その職場を辞めていますので、うるさくいう上司もいませんし、定位置定管理をするメリットも僕の独りよがりになっています。
さまざまな価値観をそのままにできないわけですね。コントロールしたくなってしまうようです。
僕の独りよがりなルールも家族に強いれば、家族は反発し、いっそう、そのルールは僕のひとり芝居とも言えるほど無意味なものになります。
僕はひとりでイライラ、ピリピリし、定位置定管理を守ってきた自分にしがみつきます。
さまざまな価値観の中で、自分を正当化したくなるという感じでしょうか。今までの自分の人生を肯定したくなるどころか、他人にも強制したくなるわけです。
しかし、
「家族の調和のために、僕ができることはなんだろう?」と問いかけると、
- 「僕の頑張ってきたこと、頑張りが人を傷つけることがある、と自覚すること。」
- 「人を不快にさせたり、否定したり、することがある。」
と天使からのメッセージを受け取ります。
定位置定管理というルールを自分に課し、頑張ってきたわけです。
その頑張ってきたことをパートナーや家族と共有すること、そして慰めてもらうことで、「頑張ること」が溶かされていくことを感じます。
正直、頑張っている自分をアピールして、陶酔するのも好きですし、犠牲者として自己憐憫も清々しいし、リーダー的な立場で周りを引っ張る(コントロール)のも心地いいかもしれません。
しかしながら、自分の内側でなされている「闘争」「不協和」「未消化」「虚偽」「黙秘」などがクリアになってこそ、「頑張ることを手放す」が機能するのではないかと僕自身は思います。
症状を診て、全体を見るという感じでしょうか。
それらを見て、自分ごととして捉え、受け入れている過程でいつの間にか、自己受容というものは進んでいくように思います。
頑張ることの使い方、熟れてくるといいなと思う今日この頃なのでした。