好きなこと貫けるほど、タフじゃない… だって調教済みだもの

潤治の徒然草

AQUAMIXTのオンラインサロンで動画配信した「得意なことと好きなこと」をテーマにした寛子とのトーク、

多くの反響をいただきました。

とてもありがたい限りです。

動画で、僕は格好つけて(つもり)、「好きなら貫けよ!」と丹下段平よろしくダミ声で発していましたが、その好きを貫くほどタフじゃない自分がいることも知っています。

そもそも、その好きって本当に僕のものなの?僕の感覚は大丈夫?好きと言いながら、誰の人生を生きているの?と迷子になることもあります。

「僕は何が好きなのだろう?」と人生の迷子になる感じでしょうかw。

「不惑」の歳をとっくに越えていながら、惑ってばかり、余裕ないんですw。

さて、こうして人生の迷子になるために僕たちは学校教育を受けてきました。(と僕は思っているわけで)

自分の「好き」という情熱を去勢させる教育と言えるかもしれません。

それは「外的な動機付け」を用いられます。その教育を受けた親が子に、その子の子も子に…と受け継がれていくのでしょうか。

その外的動機付けですが、まずは、

  • 期待に応えることを良しとする

親や先生を悲しませたくない、親や先生を喜ばせたい、などでしょうか。

  • 報酬を与えられる

成績をつけられる、お菓子やおもちゃを買ってもらえる、など。

  • 罰を与えられる

怒られる、禁止される、など。

期待に応えようと生きてきたら、誰かが喜ばないとそれをする価値はないと思ってしまうかもしれませんね。

逆に、それこそ、自分が好きなのに迷惑がかかると思い込んでしまったら?

報酬を与えられてきたとしたら、いつの間にか等価交換の感覚が養われるでしょうか。

自分の好きなことに意味があるのか?効果はすぐにやってくるのか?報酬は与えられるのか?などが気になってしまうでしょうか。

好きという動機だけで進むには、遅れている報酬を信頼できないかもしれませんね。猜疑心による…。

罰を与えられることを回避するために頑張ってきた人には、そもそも自分の好きを探る時間がなかったかもしれません。

不快を避けることは上手ですが、快を求めることで動きづらく、好きなことへの初動が遅いかもしれません。

怒られるのが嫌だから、低い評価が嫌だから、やるという感じでしょうか。

いつまでも、好きなことに手を出さないでいることもこういう人生をおくっている人にありがちです。

外的な動機付けで調教済みな面が義務教育を受けたなら、誰にでもあると僕自身は思います。

ですので、

好きを好きとわからない、貫けない、認められない、といった壁にぶち当たるでしょうか。

好きを貫くために、調教済みの僕にはリハビリが必要でした。

今でもリハビリの途中です。

自分が自分で動機付けさせられるために、リハビリは必要です。

どうすれば?

AQUAMIXT のライフパーパス個人レッスンがその道しるべ、伴走者になることでしょう。

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