先日、アクセス・コンシャスネス(R)のファウンデーションクラスを4日間にわたり参加してきました。
ベレニセとイッツェルの母娘コンビがファシリテーションしてくれました。
ベレニセは踊りながら人生を軽やかに楽しみ、虚無主義を通り越した慈悲に満ちた女性、
イッツェルはスポーツカーが狭い市道をスピードを抑えて走っているようなエンジン音を感じさせてくれる女性でした。
4日間のクラスを受講した後、すぐに知恵熱を出し、前後不覚のヘロヘロ状態に陥りました。
しかし、家族、AQUA MIXTを支えてくださる皆さんのおかげで、持ち直しました。
今日現在、ワイン&カフェレストラン サイゼリヤでノマド状態を楽しめるまでになりました。
突き抜けて楽しかったこともあり、僕の中のリミッターが外れてしまったのかもしれません。
好転反応のような2月、今日までの道のりを顧みています。
アクセスの基礎を学んだことになりますが、取り扱うテーマに「セクシャリティ」に関するものが多かったと思います。
男と女という二極性がもたらす奇跡と恩恵を素直に感じる数日でした。
しかし、日本の文化なのか、または、舶来の文化に汚染された現代の風潮なのか、
セクシャリティを語る時の空気の重さはとてつもなく、受講中、その空気の重さに堪えられなくなった僕は、おちゃらけて質問や感想をふたりに投げかけました。
「これはフリーセックス制度の導入と捉えてよろしいでしょうか?」
「僕が観てきた無数のファンタジー溢れるアダルトビデオの記憶を破壊し、アンクリエイトしていただけますか?」
「これ以上、男の本音をさらけだすことは止めてもらえますか?」
「享楽的なセックスがもたらすものよりも刺激的なものはありますか?」
「アドレナリンジェットコースターのような恋愛も楽しいかと思いますが…?」
「道行く女性を観て、セックスしたいと思うことは異常でしょうか?」
「男は種馬扱いと捉えてもよろしいでしょうか?」
などなど。
講義がどうこうよりも、もう、本音で、恥じらいなど捨てて掘り下げたいわけです。
セクシャリティに関して質問、感想がえげつなかったのか、「セックス」という言葉がテキストに出てくると、他の受講生が僕に何かを期待してチラ見してくるという事態になりました。
もう、僕はクラスの「セックス坊や」「中二病患者」なわけです。
今、僕はスピリチュアルカウンセラーと多くの方に呼ばれるようになり、
自宅でサロンを営むことが出来ています。
僕はスピリチュアルカウンセラーになったのではなく、呼ばれる人になったわけです。
自称「○○」ではない、ということですねw。
さて、その際に一貫して守っていること、AQUA MIXTの美学のひとつは、
「誤解されることを怖れないこと」
「間違った評価も受け容れること」
です。(間違っていないしね、その人の視点だから…)
誤解を怖れて、自分を擁護したり、弁解・弁明・弁護することは自分の人生を生きる際には不必要なものと思っています。
役に立たないエネルギーということでしょうか。
しかし、誤解されることを怖れて人生の遠回りや混乱を招き入れる人もいます。
ええ格好しいの僕もそうです。
スピリチュアル起業にかかわらず、自分の人生を生きようと真剣になった時、
必ず通る道がこの「誤解されること」と思います。
僕をスピリチュアル起業させてくれた多くの人たちのおかげで、
僕は誤解されることを怖れないようになりました。
寛子というパートナーや娘の小葉の影響はとてもつもなく大きいことも確かです。
4日間のクラスで、僕は大きな誤解をされたことでしょう。
「巨乳好き」という煙の無いところからも火が出てくる始末。
あえて、弁明させてもらうなら、こう言いたい!
「セックス・セックス・セックスと連呼しているように皆さんに聞こえていたかもしれません。
しかし、僕は駆け出しのセックス妄想する中二病でも、童貞でもございません!
女性と付き合ったことのない2次元女性をこよなく愛す男でもございません!」
僕の弁明が僕の正当な評価を取り戻すことを祈っています。
あら、やっぱり誤解されることを怖れているんですね、僕。
重ねて言いたい!
「僕は…
【童貞】ではございません!」
アクセスコンシャスネス(R)流に言うなら…
童貞と誤解されることに対する怖れを僕は破壊し、アンクリエイトします。
(ここでクリアリングステイトメント 詳しくは講座で )
誤解されることを怖れない、
誤解されても僕たちひとりひとりの価値は変わらない、
そう信じてみてもいいと僕は思いますが、
あなたはいかがですか?