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自分が本当に望んでいるもの、忘れていた想い、受け取っていた恩恵を思い出していくわけです。
これからの人生を、どのような自分で生きるかを再構築する作業とも言えます。
心が穏やかで、静かな情熱を感じ、満たされて生きる喜びを味わうために何が必要でしょう。
意味なんてないさ、夢中になっているだけ
僕が小学4年生の頃、ドッチボールが好きでした。
給食が終われば、すぐに外に出て、数人の男子でドッチボールをし、帰りの会が終わって放課後になれば、陽が暮れるまでやり続けました。
クラスの女子は呆れていましたが、僕たち男子は夢中でした。
「将来、プロになるんだ!」
「プロになる人は小学生高学年には、大会に出ているからね。」
「ドッチボールをやっていると健康に良いんだ。」
「やり続ける姿勢は、中学受験に有利なんだ。」
「ドッチボールを楽しんでいる姿で、世の中にワクワクを伝えたい。」
「僕たち、ドッチボーラーですから。」
などということは微塵も考えていません。
なんだか楽しいし、もう、理由などないし、女子たちにその楽しさを分からせようとも思いませんでした。
しかし、しばらくすると数人の女子もドッチボールに参加するようになりました。
体格は女子のほうが良かったりするのが小学生4年生男子の悲しいところで、バシバシと女子にボールをぶつけられました。
ドッチボールの輪は広がり、他のクラスを巻き込んでいきました。
彼らに今、僕が「そんなことして意味あるの?」と問えば、きっとこう答えるでしょう。
「意味なんてないよ、楽しいからやっているんだよ。なんで?おじさんッ!」
大人になると、好きなことを好きと言えなくなることがあります。
しかも、それをしてどうなるの?と自分自身を疑ってしまいます。
「好き」という氣持ちを隠してしまうことさえあります。
本当は自分の心が喜ぶのに、それをせずに生きていくことも少なくありません。
自分の「好き」を全開にする
ありがたいことにこの日本では、法律で表現の自由は守られ、好きなことを好きと言っても、つるし上げられることもなく、断罪させることも、ましてや火あぶりされることもありません。処刑台も用意されていません。
ただ、残念ながら、人から評価されるという教育のもと、羞恥心や失敗への怖れなどが心と身体に深く入り込んでいます。
この体質を変えようとすると自分の中で抵抗、怖れ、好転反応があるかもしれません。
ライフパーパス個人レッスンは、モチベーションを煽ることも、コミットメントを引き出すような圧迫感もありません。
カンフル剤は打ちません。
それだけに、楽しむことを自分で決めるという、小学生の頃はひょっとして当たり前だったことを思い出します。
行動編~発展編を経て、「好き」という氣持ちが、人を動かし、多くの人を巻き込み、豊かさを分かち合うことになっていく楽しさを習得します。
いや、思い出し、素直になるという感覚でしょうか。
自分に無条件の愛を許せると良いなとレッスンを提供しながら、僕自身の人生の道中で思います。
自分の人生を素直に生きることを自分に許してあげることは無条件の自分への愛かもしれませんね。