「自分が愛されていること」を前提に世界を観たら…

潤治の徒然草

「自分でできることは、自分でしなさい。」
「人に迷惑をかけないでひとりでやりなさい。」
「他人を頼るからそうなるの。自分で何とかしなさい。」

…など、子どもの頃、多くの偏重した「自立心教育」のために、僕はいつの間にか人に頼らずに自分で何とかするようになりました。

そして、自分である程度のことができ、他人を頼らずにいられると錯覚する頃…

今度は「上手に頼るということ」ができなくなっていることに氣付きました。
その自分を肯定するために、「ひとりでできる自分」を自分のプライドにしました。

何でも自分でしようとすることの正当化、でしょうか。

そして、それは「強い自分」「孤高の自分」という自負にもつながります。

しかし、それが過ぎると「傲慢さ」「弱者への差別」「有能と無能の二極化」などの意識を生むかもしれません。

バランスが大切なのでしょう。

そのことを感じるために、日頃から「愛されている自分に氣付く」ようにしています。

僕たちは、とても多くの人や存在に愛されているからこそ、生きていることができます。

僕が今、こうしてパソコンを使えるのも、誰かが愛の表現として仕事をしてくれたから、だと言えないでしょうか?(おおげさ?)

舗装された道路も、時間通りに運行する電車も、美味しいものを提供するお店も、日本各地に行き渡るような配送ネットワークも、誰かの愛情表現のひとつと僕自身は感じます。

朝陽が昇り、地表を温めてくれることも、大いなる存在の愛情表現かもしれません。

残念ながら、あまりに愛情に乾いていると、それらが自分の欲しいカタチではないので、見落としがちになります。

「頑張り屋さんの受け取り下手」
「飢餓状態の余裕無し in ホテルビュッフェ会場」

…状態ですね。

あるひとつのカタチ、例えば、ひとつのジグソーパズルのピースを求めながら、自分のところにやってくる、無数のピースを見逃しているような感じでしょうか。

実は多くのピースがやってきて、何かが出来上がりそうなのに、これは違う、あれも違うと結論づけて、取捨選択してしまっているとしたら?

多くの愛情に支えられているからこそ、自分がこうして生きていられると感じると、その逆もあり得ることに氣付けます。

僕たちの何気ない作業や仕事、ふるまいや言葉が誰かのピースになるということですね。

たくさんのピースが整い出すと、きっと「乾いている」状態も癒されるでしょう。

そうすると、本当に愛情を真っ直ぐに伝えたい人、受け取りたい人と向き合っていけるかもしれません。

「乾いている」状態で、誰かと深く関わったり、親密になろうとするのはとても怖いことに思えるでしょう。

ちょっとしたことで、傷つくのではないか?リスクがありすぎる、と敬遠してしまうでしょうか。

疑心暗鬼が、深い関わりではなく、浅い関わり、または本音を隠した心理的なゲーム、何かの活動や共通の目的を持った運動に人を誘うかもしれません。

それほど、「親密になること」から人は逃げたくなるわけです。

まずは、自分が「愛されていること」から世界を観ることが大切です。

理不尽なこと、不当なことが起きても、それが「愛されているとしたら?どんな意味が?どんな祝福が?」と問いかけてみるといいかもしれません。

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