自分自身が抵抗しながらも、何か気になる、意識してしまうことってありますか?
「何を今さら」
と自分に苦笑いしてみたり、
「意味が無い、役に立たない」
と想像しうるすべての結果を予測してみたり、
他人の失敗や挫折に意味なく影響され、
「あのぶどうは酸っぱいに決まっている」とイソップ童話を気取ってみても、
僕たちの人生を誰も妨げることはできないし、
すべての責任と自由は各人に委ねられていると僕は思います。
「悔しいけど、僕は自由なんだな(機動戦士ガンダム アムロ・レイ 風)」
その自由という名の「責任」を何か大きなプレッシャーのように感じ、尻込みするのも僕たちの自由です。
頑なに「こういうものだ」「昔、こうだった。」「こうあるべきだ」と
人生のいたるところで創り上げてきた「囚われの視点からなる価値観」は、
僕たちを臆病者になる助力となってしまうかもしれません。
エンジェルセラピー(R)に出合い、
アメリカのドリーン・バーチュー博士のAngel Therapy Practitioners(R)講座を受講しようとした時と同じ気持ちに最近なることがありました。
2007年当日は、とにかく僕の人生は最安値安定し、人生のヴィジョンを見失いそうな時でした。
人生の目的とは全く関係のない仕事(…と当時は思っていた)に迂闊にも満足し、それなりに楽しいという状況でした。
その満足感は、薄ぼんやりとした不安と同居していて、
どことなく不完全燃焼感は漂い、そもそも、寛子と描いた未来予想図からはかけ離れたものでした。
「自宅でカウンセリングルームを営みたい。」というヴィジョンは、
ややもすれば下方修正され、かき消されるところでした。
寛子がそれを許さなかったわけですが…。
ドリーン・バーチュー博士の講座に行く際も、さまざまな指摘を僕自身が僕にするわけです。
批評家である僕の自分への批評は全方位的ですw。
「講座は全部、英語だよ?」
「あなたの英語力大丈夫?」
「いつからスピリチュアルなことを扱うことになったんだっけ?」
「そのような需要はあるの?」
「インチキくさい、正気?」
「氣持ち悪い、怪しい。」
「周りにどう思われることやら…。」
「それって稼げるの?職業?」
ありがたいことに、周りの人たちからそのような言葉をもらう前に
僕のネガティブシミュレーションはそれらを包括していました。
今思えば、無駄な先回り思考だと思いますが、
傷つきたくない一心でその思考パターンを磨いてきたのでしょう。
講座では、男性だけでミーティングをするという時間もありました。
寛子や一緒に来た仲間も居ず、僕ひとりグローバリズムに呑み込まれていくのかと
完全な「ぽっつーん感」が僕を襲いました。
「こりゃあ、神さまが仕組んだまな板の鯉状態だな…。」
と半ばキレ気味にその場に挑みました。
馬てい形に並べられた椅子に15人ほどの男たち…
誰かに隠れてやり過ごすことなどできない状況に追い込まれました。
ひとりひとりが順番にジョークを交えて話し、笑いが起こり、この数日を振り返っていました。
「潤治はこの講座で感じたことはあるかい?」と
当時、ドリーンの夫であったスティーブンが話しかけてきました。
「ありがとう、スティーブン。僕はね…」と話し始めてみました。
人生には「どうにでもなれ」という瞬間があると僕自身思います。
やけになるというよりは、自分のコントロールや執着、怖れ、予測を手放すような氣持ちでしょうか。
人生は自分が思っている以上にたくさんの豊かさや喜びを与えてくれると
ちょっとだけ信頼してみるというニュアンスでしょうか。
経験や誰かの価値観に影響され、さも自分が正しいと思っている視点は無意味であると僕は感じます。
自分を正当化することで喜びややすらぎを感じたことはありません。(僕だけ?)
人生に対して、
「神さまのまな板の鯉」状態になる。
その機会がアクセスコンシャスネス(R)の世界でも現れました。
幸せな降服(sweet surrender)…とも言えるでしょうか。