不登校とホームスクールの違いは?
積極的不登校である娘は、9歳になります。
学校とは適度な距離感で関わっています。
- 年3回 学校側と親子面談をする
- 家庭での「学習記録」をつける
の2点が、学校と話し合って決めたことです。
校長先生の裁量によりますが、その話合いができてよかったなと親としては思います。
我が家の感覚としては、世間で言うところの「不登校」というよりも、「ホームスクール」と言ったほうが適切かもしれません。
学校に戻ってほしい、学校への復帰は微塵もなく、自由に学んで欲しいという家族の思いですから。
子どもが学校に戻ることを望んでいれば「不登校」で、学校とは距離を置いて、学習したいと思えば「ホームスクール」でしょうか。
家庭で学ぶことを選んだ場合は「ホームスクール」
ホームスクールをしていると、学校ではなく、家庭だからこそ学べる瞬間はよく経験します。
家庭でできる学びの良いところは娘と一緒に「遊び」「創造」「空想」を楽しめる世界に飛び込んでいけることだと感じています。
時間もなく、必修科目もなく、1コマの時間が決まっているわけでもない、家庭時間だからこそできるということは多いです。
スターシードの娘は創造的な時間が好き!決められるの嫌い!
ある時は、娘とお人形遊びをします。
そのお人形たちのいる世界観を一緒に想像するわけです。
「どうして、このお人形はこんな表情をしているんだろうね。」
「どんな設定の物語が始まりそうかな。」
と、ああしたらいいんじゃないか、こうしたら面白いんじゃないかと話し合って、その世界観を創りあげていきます。
こういう世界に娘と体験していると、大人も子どももなくなってしまいます。
何か創りあげる技術的なことや知識は大人のほうが持っていますが、世界観へのヴィジョンは娘のほうがたくさん持っています。
なんとなく始めた「遊び」がいつの間にか資料を持ち出し、昔の映像を見たり、言葉を調べたりと展開していきます。
それを一緒にすることで、大人の持つモノと子どもの持つモノが溶け合い、面白いほど楽しい世界が出来ていきます。
おまけとして、娘は新しい言葉を覚え、漢字を書き、概念の擦り合わせをし、工夫を覚えます。どんどん応用力がついてくることをホームスクールをしていて実感しています。
自分の氣持ちに正直になることは素晴らしい!
そこには、親としての威厳や権威主義など無くなってしまいます。スターシードにとって、地球のそういった「目眩まし」のような技術や価値観は必要ありません。
娘を見ていて思いますが、彼女が親である僕に敬意を払ってくれるのは、僕が素直になったときです。素直に自分の非を認め、謝るときです。
親子で一緒に何かをすれば、どうしても親としての「教育への勇み足」で間違うことが多く、その都度、謝っています。誤解を怖れずに言いますと、謝れば謝るほど親子の関係はとても良好になります。
特に、怖かった・悔しかった・悲しかった・恥ずかしかった…という氣持ちに正直になるとき、娘は僕をとても好いてくれます。
我が家が、娘と相談してホームスクールにしたのは、親子だとこういう密なコミュニケーションが起こりやすいからです。建前でもなく、体裁を整える必要のない、素直なコミュニケーションです。
折に触れて、気の向くまま……
「今、なんかスゴイ学びが発生しているのでは!?」
と思える、奇跡のような瞬間を家族で共有しています。
そこには、たくさんの学びと喜びがあります。
一緒に「遊び」「創造」「空想」を楽しめる世界に飛び込むためには、大人の僕にゆとりがないとなかなかできないなと日常生活で感じています。
そのゆとりは、親自身の「自己受容」とも関係します。
幾ばくかでも自己受容を望みながら、今日もホームスクールをしています。