こんばんは、寛子です。
心の風邪とも言われる「鬱」。一言で「うつ」という言葉で片付けられるものではありませんが、私の鬱体験、そして乗り越えてきたストーリーを中心に「夜明けのレッスン」シリーズを書かせていただいています。薬の副作用のお話の、続きです。
お祓いをしても、罪悪感を抱えた私は守られていることの自覚もなく、憑依体質なままで根本解決にならず…そんな休職をする直前の話は、夜明けのレッスンシリーズ「その6 暗闇の前兆」&「その7 遠野の旅2008」をどうぞ。
10年前の話になります。
罪悪感と絶望から自分を仕事に追いこみ、心身ともに無理をし過ぎたことに気付いた時は、健康組合から配られた冊子の「うつ度チェック」はほぼ満点。
私の調子が明らかにおかしいと、上司3人も休職を勧めてくれました。
その時は理解ある職場だと、感じていました。
人事の担当者は「コンサルティング業界は、職業病ですから。」と、淡々と休職手続きをしてくれました。
上司は「高血圧の人が薬を飲むように、鬱も薬で抑えてやっていけるものだから。」と話していました。
通院する神経科を、当時一人暮らしをしていた阿佐ヶ谷近辺で、と思っていたので、学生時代の友人で精神科医になった数人に相談しました。
そして友人が紹介してくれた近くの個人のクリニックに、何も疑うことなく週1回通うことに。
診察は、5分~10分弱でしょうか。
症状を話して、こういう薬がいいでしょう、と薬の説明を聞きます。
抗鬱薬や睡眠薬、抗不安薬など、かなりの量の薬を組み合わせて処方されていたことを覚えています。
薬は人によって合う合わないがあるから、毎週様子を見て合う薬を見付けていく、という話でした。
どうして鬱になったのか、そんな話は一切ありませんでした。
その時は、3ヶ月の休職中に自分に合う薬が見つかって、早く復帰したいという焦りもありました。
休めばそれだけ、昇進も遅れる。当時の私は、キャリアを積むことしかないと思い込んでいたからです。
最初に処方された薬で、副作用の身体に及ぼす影響の強さに驚きました。
吐き気、目まい、異常な喉の渇き、何にも集中できないぼんやりした感覚…
明らかに、私の身体は薬を異物として、嫌がっているのを感じました。
でも、他に方法がない…思い込んでいたのです。早く、自分に副作用の症状がキツクない薬の組み合わせを、見つけなきゃ…休職した3ヶ月間、毎週薬の組み合わせを変えて試しました。
ある時は…
足元もおぼつかないほど、バランス感覚を失い歩けなくなりました。歩く時は、誰かに支えてもらっていないと危ない状態でした。
全身がしびれて、寝返りもうてない夜もありました。
幻覚が見えて、暗闇の中に眩いばかりのカラフルな模様が一面見えるときもありました。
記憶が飛ぶことも、多数ありました。
これらは、私が薬を服用始めてすぐの、初期の副作用です。
前回書いた攻撃的な行動は、薬の服用が長引いてから出てきやすくなったように記憶しています。
後で知ったことですが、友人の紹介してくれたクリニックは、先代の院長がお元気だったころは、本当に評判の良い神経科のクリニックだったそうです。
私の祖母が偶然、先代の院長とテニス仲間で、詳しく知っていたのです。
先代の院長は、うつの症状を訴える人たちを、郊外で身体を動かしたりテニスをしたり、といった施設を有効に活用した治療をしており、信頼されている先生だったそうです。
前回に引き続き紹介します「『うつ』を克服する最善の方法」 にも、有酸素運動がうつの改善によいという著者の体験を交えて紹介されています。
しかし、先代が亡くなられて息子さんがクリニックを引き継ぎました。実は、大学病院に長らく勤務していた別の科の先生だったのですが、神経科のクリニックを引き継いだのです。
晩年、精神科に変わるというのは、よくある話のようです。
現状としては、神経科については特に、薬に詳しい医師は少ないそうです。製薬会社の売り文句「鬱は薬で治る」をそのままに、重大な危険性や副作用についての知識はほとんどなく、薬で症状を抑えるために処方するのです。
薬で症状を抑え、よくなってきたら少しずつ薬を減らす。それは、製薬会社が儲けるための仕組みでしかないと、後から知ったのでした。
薬の副作用との闘いの日々の中、根本解決はないのか、真剣に考えるようになるのは、もっと先の話です。
(続く)