今年は母の日と娘の誕生日が重なり、妻の寛子にとっても感慨深い日になったようです。
もちろん、夫の僕にとっても情けなくも愛しい日々を振り返る機会になりました。
妻の実家に集まり、皆でお祝いをしました。
お義母さんが張り切ってお誕生日ケーキを焼いてくれて、各人が小葉の幸せを祈ってくれました。
などもよく言われるものでしょうか。
人生早期に親の影響下で発達し、現在も進行中のプログラムです。
4・5歳くらいから小学校を卒業するころには人生脚本をある程度、描き終えます。
けれども、成人になってもトラウマとして新しい脚本は追加していきます。
泣いていると、親に”うるさい”と怒られた。
→感情を出すと自分を否定される。
泣いていると、親に無視された。
→自分の感覚を信じられなくなる。
両親が不仲で、自分がピエロのように振舞うとふたりが笑ってくれた。
→自分がバカになれば、存在を認めてもらえる。
よく、”強い子は好きだよ”と言われて褒められた。
→強い子でないと自分には価値がない。
欲しいとねだっても、お金がないから我慢しなさいと言われた。
→欲しいものは手に入らない、我慢していればいい。
病気になったときだけ、可愛がられた。
→健康になることは、自分に存在を認めてくれないことと同じだ。
お姉ちゃんなんだから…お兄ちゃんなんだから…と育てられた。
→人に頼れない。愛情を素直に出せない。
楽しんでいると”ふざけるな”と怒られた。
→楽しんではいけない。自由な感情を出してはいけない。
こうした過程で出来上がった脚本が内的世界を作り、
その後の個人の生涯の重要な局面でその脚本は、
現在の自分に必要のない人生脚本は何度でも描きかえられます。
人生脚本が今ある自分にどれほどの影響かを知り、
“変わるパワーは個人の中にある”
そのときの起こった脚本に立ち返り、
“記憶はファンタジー(空想・幻想)である”
これから先に人生を進める時に…
未来の自分にその脚本をプレゼントしたいだろうか。
心の声に従って、新しい脚本を描いてみたいだろうか。
“自分が変われば、自分の中にある脚本が変われば、
いつでも人生は変化を求めています。