相手にも自分にも踏み込めないために生じる問題は何でしょうか?

魂の使命・人生の目的

今、大人になってもう数十年が経ちます。
平成生まれのママ友がいます。
潤治です。

AQUAMIXT が立ち上がって十数年、人間関係で悩むこともあまりありませんでした。
そして、年々、さまざまな新しい人間関係が始まることも仕事や子育てに絡めて多くなりました。

娘のおかげでママ友・パパ友ともお付き合いをさせてもらう機会も増え、社交辞令ではない言葉を紡いでいます(と思います…)。

僕自身、人間関係で感じがちな壁やバリアのようなものをあえて壊して踏み込むことをモットーにしています。
踏み込まれて不快と感じる人も、踏み込む練習をしていると見分けがつきます。

その場合の踏み込みの緩急や程度に、今までの練習の成果を感じます。

人間関係は素晴らしい豊かさの運河だと僕自身は思います。
滞ることのない河の流れが、いつも自分に注ぎ込み、流れていきます。
豊かな感情、励まし合い、敬意や情熱、優しさやセクシャリティ、可能性…などなど。

寛子と出会う前、僕はその運河の流れを軽視し、ことごとく裁ち切り、遮断し、排除し、孤高と孤独をはき違えていた頃があります。きっと自分を追い詰め、傷つけて、何か得るものがあると思っていたのかもしれませんね。

さて、話は変わりますが、

僕には小・中学生の友人で今も頻繁に会って交流を深めている人はいません。
この尺度だと、僕はとっても友人がいない寂しい人です、けども何か?

小・中学生の頃の友人が僕の人生に関わることはほぼ皆無であり、当時は永遠の友情や信じられない憎悪を感じた関係もその頃を過ぎれば、何の効力も意味も持たないように感じられます。

小・中学生の友人など意味がないと言えるかもしれません。

当時はとてもぶざまな姿や恥ずかしい経験、暴力、傷心、嫉妬や執着、喜びや好奇心、愛情や憤怒など、いろいろな感情を友人との関係で味わいました。

  • 好きな子に恥ずかしいくらい執着したこと
  • その子の家の前で数時間過ごすこと
  • 好きな子にあきらかに嫌われること
  • 自分勝手にくだらない自分の自慢をして呆れられること
  • 悔し泣きしながら、それでも好きって女の子に思うこと
  • ナイフよりも傷つく言葉を相手にぶつけて泣かすこと
  • 負け顔ができなくて、言い争いすること
  • 自分の気持ちを直球でぶつけること
  • 好きか嫌いで人間関係を決定すること
  • 大勢の前で怒ったり、悔しがったりして暴れること
  • いじめや裏切りで友人を悲しませること
  • 好きな子にたまらず、抱きついちゃうこと(合意なく…)
  • 他人の失敗をからかい、喧嘩になること

などなど…。

大人になって振り返ると、空気読めてないわぁ、無理あるなぁということも当時は許し許されていたわけです。

「踏み込む練習」をいろいろな友人、恋人としていたのだろうと思います。

踏み込んで、同じ土俵で相手を傷つけて、自分も傷ついて、本音をお互いにわかちあい、何かを乗り越えて理解しあう経験は、当時だからできたのかもしれません。

「甘噛み練習期間」と僕は呼んでいます。

高校・大学となると「適当な距離感」を皆上手に使い出します。
本当に「噛む」と怪我をするから、お互いに痛みを想像以上に捉え、避けるようになります。

社会人になるといっそうその傾向は進みます。

人間関係の痛みを想像以上に捉え、「策を講じすぎ」たり、「怖い」とか「面倒臭い」というレッテルを貼ってしまうかもしれません。

人間関係は「自分を磨く砥石」です。
どの程度、自分を磨くかはその踏み込みに比例すると僕自身は思います。
もちろん原石のままで良いと思えるし、その答えは自分にしかわかりませんょ。

いつの間にか人間関係でしくじり、すっかり痛がり屋さんになることもあります。
近所の人に挨拶したのに、無視された…だけでも数分は落ち込みますから。

でも、そんな日常のほんの「踏み込み」が僕自身を磨き上げてくれると思っています。
それをどう捉え、どう向き合うか…ですか。

そして、さらに大事だと僕が思っていることがあります。

それは、いかに相手に踏み込むかを練習していると、それはそのまま「自分に踏み込むこと」の上達に関わります。

自分の中にある欺瞞や矛盾、怖れや不安、乖離や責任転嫁、臆病さや逃避、普段は格好つけて隠してしまっている感情にもすぐさま氣付きます。

僕の場合、大体格好の良いことを言っている時は「不安」や「葛藤」が発動しています。
そのことを自分でツッコミができるかどうかは、自分らしい人生をおくるために必要なセンスかもしれません。

そのあたりは…もちろんライフパーパス個人レッスンで…(しつこいよね?ごめんね、ポチしてね)。

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