(※少しネガティブな描写が出てきます。R18指定)
結婚して7年目にしても、夫婦喧嘩をしています。プチになってきてますが…。
結婚したての頃は相手の何かスイッチを押してしまった…とか、地雷を踏んで
しまった…くらいの感覚で、夫婦喧嘩は何か災難というか、一時的な外的な
要因で自分に被ってくる事象と感じていました。
つまり、僕は悪くない…、相手もしくは、タイミングが悪かった…という感じ。
原因はさまざまで…
脱いだ洋服を片付けていない。
家計簿のチェックをしていない。
食べ物をこぼす。
洗面台を綺麗に使わない。
電気のつけっぱなし。
小さなことから、大きなことまで、入り口が違うだけで
中に入ってしまえば、今の態度が…、今の言い方は何ッ?とか…。
何でそういう言い方するの。
意味解らない。
信じられない!
人を見下さないで! コントロールしないで!
犠牲者にならないで!
どこの入り口から入ったかは、もうすでに忘れてしまっています。
理論的から感情的に…、言葉は理論的でも、非言語は感情的で少し複雑な
コミュニケーションになっていきましゅ。(「しゅ」は文章を中和するため)
中に入って、いろんな感情が出てきますが、目立ちたがり屋さんは
“怒り”
僕が悪いんじゃない…、相手が僕を刺激するんだッ。相手のせいだ!
怒りで自分を防御します。
僕には怒ってもいい理由がある。
十分我慢したからねッ。 怒ってもイイのさッ。 怒っちゃえッ。
そんな時にこころの声を聴いてみると…。
「あなたは自分の触れてほしくない痛みをパートナーを通して見ている
だけです。
誰もあなたを傷つけていません。 あなたがあなた自身を傷つけて
いるのです。
癒されていないあなたの傷を癒す機会ですから、怒りでその機会を
失わないでください。
貴方の目の前の人はあなたを傷つけたいのでしょうか。
あなたを恨んだり、憎んでいるのでしょうか。
怒りを感じているときに、あなたはパートナーを見ていますか?
パートナーが今、何を感じているか、今、あなたが感じてください。」
その声を聴くタイミングを持つことが大切だと感じるようになりました。
決してパートナーは自分のことを傷つけようとか、不利益を被らせようとか
、そんなことは考えていないものです。
相手を通して、自分の中にある痛み、癒されていない自分を見ているだけ
です。
1番身近にいる人が、単にそのスイッチを押す機会が多いだけだと感じます。
その時に怒りを感じている自分を見せるのが嫌で、感情が落ち着くまで
ひとりでいようとか、離れていようとか、考えてしまいがちですが、
そのことが、単に問題に蓋をしてしまう行為なのだと思うようになりました。
その時の怒りは落ち着き、問題は解決したかのように思えますが、癒されて
いない自分を癒す機会は逃してしまいます。
そんなとき、自分の中に入らず、自分の感じている癒されていない痛みを
パートナーと共有します。
怒りで覆っていたものは…。
寂しさ、無価値感、劣等感、愛されたいという欲求、焦燥感、罪悪感…。
我が家には“寂しい”を言えずに怒りで自分を防御する殿方がおられます。
こころの声は少し強めに言ってきます…。
「“寂しい”って言っちゃえよ! “甘えたい”って!」
ここまでくると入り口のことなんて完全に覚えていません。
何が原因だったんだろう…、この喧嘩…みたいな。
怒りで自分を正当化して、自分の癒されていない痛みをみないように
するのは、自分の中で何が起こっているのかがわからなくなります。
混乱を生み、さらに怖れを生み、自分をコントロールできない無力感を
感じてしまいます。 感情が僕のご主人さまになります。
こころの声は言ってきます。
「あなたが感じている痛みはわかりますが、パートナーを見てください。
あなたが怒りで防御していると彼女はどんどん孤独になります。
あなたを見つめると同時にパートナーを孤独にさせないでください。
愛はこういう形でも生まれてきます。」
怒りで自分のことを防御してしまいたくなるときはこの言葉を感じます。
「あなたの怒りでパートナーを孤独にさせないでください。怒りを感じたときこそ
相手を愛する機会をあなたに与えています。そのことを通じてあなたの痛みも
癒されるでしょう。」
というわけで、今回は「怒りでパートナーを孤独にさせない。」でした。