「無条件の愛」それは都市伝説か、パフォーマンスか?

潤治の徒然草

先日、YouTubeの動画配信で、ドリーン新作カード「愛と光のガイダンスカード」の開封の儀とレビューも一緒にさせていたきました。

「あなたは愛と光の存在です。」というスピリチュアルな殺し文句がありますが、言われて「いやいや、それは勘違いですよ、僕のことではありません。」と謙遜、疑心で返してしまう自分が数パーセントいます。もちろん、「そうだよね。」と信頼する自分も数十パーセントいますよ。

わたしは愛と光の存在です!

しかしながら、「僕は愛と光の存在です!」と言い切るために、どれほどの自己暗示をかけなければならないのか、イメージすると気が遠くなります(笑)。自分の闇の部分は隠蔽しなければならないかもしれないし、抑圧した僕の「ハイド氏」に怯えながら生きることになりそうです。

「わたしってセロリー嫌いじゃないですかぁ…。」
から始まる会話のように…

「僕はね、愛と光の存在ですから~」から始まる会話がろくなものではないような気がするのは僕けでしょうか。

自分の影を自分で踏めないように、自分が愛と光の存在であることも、自分では認識できないものと思います。

娘を見ていると、いつでも無条件の愛を僕に向けてくれます。
まさにこの人は「愛と光の存在」と思うこともしばしばあります。

親が子どもを無条件の愛で包んでいるとか、正直、自分を省みて微塵も思えません。
そういう立派な大人がどこかにいるのろうか?

しかし、娘の無条件の愛に、自分もひょっとしたら、幼少期、親に対してそういうものを向けていたのかもしれないと思うのです
親を喜ばせよう、愛されていると感じて欲しい、安心させたい、などの動機で発していた言葉や想いがあったのかもしれないと。

それが親に受け容れてもらえなかったり、親から自分を否定されたような気になってトラウマを持ったり、その後のこじれた人生をおくっている人がいるなら、それは「愛した証拠」と言えるのではないでしょうか?

残念ながら、僕は40歳を過ぎて、父親に「謝れ!正式に謝罪しろ!」と説教してしまう、立派な大人とは真逆の人間です…w。
ですから、愛と光の存在と自分で言い切るには、時間がかかりますが、思いかえしてみるとそうである自分が自分の中にいるかもしれません。

僕たちの中に「無条件の愛」が無いと言い切れない以上、その美しさが自分の中にあると思ってもいいのでは?と自問する日々です。(印象操作だと糾弾してください…)

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