こんばんは、潤治です
先日、映画「アジャストメント」を夫婦で観ました。
“運命とは何か?”
“人生は僕たちの自由意志にゆだねられていること”
を考えさせる映画でした。
僕たちは人生を選択して生きる力があります。
そんなことは当たり前のことだと思いながら、日々の生活では、
知っていることとやっていることに大きな違いがあることが少なくありません。
特に僕の場合、夫婦間でその矛盾がわき起こりますます。
“運命とは何か?” と大きな命題を自分に課さなくても、
日々、それに取り組む機会はあります。ほんのささいなことでも…。
たとえば、パートナーの寛子が、僕にこう言います。
“お腹減ったねぇ~。夕飯、どうしようか。”
その言葉を聞くと、僕の心がざわめきます。
“夕飯、何か作ろうか?”
と僕は彼女に返答します。
“お願い、ありがとう。”
彼女は、僕の料理待ちです。
…しばらくすると、自分の心の声が聞こえてきます。
“なんで、僕が作らないといけないんだろう?”
“本当は作りたくない…、面倒くさい!”
また、寛子がこんなことを僕に言います。
“暑いねぇ~、のど渇かない?”
やっぱり、僕の心がざわつきます。
“冷房つけようか?スイカを切ろうか。”
と僕は彼女に返答します。
“嬉しい!スイカ楽しみ!”
彼女は、スイカ待ちです。
…スイカを切りながら、ふと思います。
“あれ?僕、メロンが食べたかったのに…”
そんな時にかぎって、スイカの果汁が白いTシャツに飛びます。
“もう、だからいやだったんだよぉ~”
…とひとりで愚痴をこぼします。
その延長線上に夫婦喧嘩もあります。
無言でスイカを食べ始める彼女に、
“いただきます、っていうのが常識でしょ!?”
…と、彼女を裁こうとします。
本当に伝えたい気持ちは、「感謝されたい」 です。
このパターンは、僕の自動思考です。
日常生活のほんのささいなことで、
自分がすこしでも不快な思いや、心のざわつきを覚えるなら、
それは人生を意図的に選択していないからかもしれません。
意図的に選んでいて、それに納得していれば、
愚痴や不快な思いは出てこないのかもしれません。
だって、自分の自由意志を選ぶなら、それで納得がいくことだから。
彼女に “気をつかう” というあたかも素敵に見えることで、
僕自身が本当に心地良いことを選択する勇気から…、
自分自身の自由意志を選択する勇気から…、
逃げてしまっているのかもしれません。
犠牲から、何も生まれません。
それは夫婦間でも、友人間でも…。
勇気をだす…なんていうと大げさかもしれませんが、
気付かずに飲み込んでしまっていることを言葉にする意志は持ちたいです。
なので、パートナーの寛子が、僕に…
“お腹減ったねぇ~。夕飯、どうしようか。” と言ったとしても、
僕は心のざわめきを押さえつつ、
“お腹減ったね、夕飯どうしようか?僕はお腹減っていないから、
寛子は食べたかったら、自分の分作って食べなよ。”
と返答してみます。
“うん、わかった!じゃあ、そうする。”
と言って、彼女は買い物に行きます。
僕は、ボーっとして、過ごします。快適です。
また、彼女が
“暑いねぇ~、のど渇かない?” と言っても、
“暑いねぇ~、僕はジョギングしてから、飲み物を飲むから、
寛子の好きなタイミングでスイカでも切ればいいと思うよ。”
と返答して、自分がしたいことをした後、スイカを寛子の分まで切ります。
とても快適です。
彼女はいわれのない罪を責められたり、
僕からのいちゃもんに付き合うことはありません。
僕が主体的に生きれば、感情に振り回されることはありません。
勇気は先払い…、我慢は後払い。―潤治談
“運命とは何か?” と大きな命題を自分に課さなくても、
僕たちの自由意志は試されることを待っています。
日々、それに取り組む機会はあります。ほんのささいなことでも…。
その小さな積み重ねの連続が大きな結果を生むと信じています。
結果的に、今では夫婦喧嘩が減りました…。