こんばんは、潤治です
今日は台湾茶の会を開いていました。先日、夫婦で旅行した台湾を画像を紹介しながら、旅行を振り返りました。素敵な出逢いやドキドキする体験、食いしん坊のふたりの食生活などを笑いあり、ツッコミありで楽しみました。初対面の方もいらっしゃって、その中に内モンゴル自治区出身の方もいて、中国の文化も教えてもらいながらの会となりました。
(※写真は温泉で知り合った方と北投温泉近く地熱谷にて)
旅行というと一週間以上は日本から離れる感覚を持っている寛子と近場で一泊二日くらいでいいのでは?と思う僕とでは、価値観のすりあわせが必要でした。
どこかで楽しむことにブレーキを踏む僕と楽しむことになるとアクセルを踏める寛子との価値観の違いは大きなものでした…。
ふたりの価値観がなんとなく違うな…と思っていましたが、
夫婦で、イソップ寓話 「蟻とキリギリス」 の解釈について話している時にその大きな違いを確信しました…。
僕にとってイソップ寓話の「蟻とキリギリス」 は、
蟻が夏の間、一生懸命コツコツと働いて、冬場をしのぐという
“未来のためにコツコツと準備しなくてはならない”
“未来に備えて、今は我慢して努力しなければならない”
我慢と苦難の物語でした…。
その話を寛子にすると、
「ええ~っ! キリギリスは自分らしく生きることを選択して、
ハッピーだったというお話じゃないの?
蟻たちも自分たちの食料を分けてあげたんだと思ってたッ。
それが真実でしょ?」
と僕のイソップ寓話から勝手に自分自身にすり込んだ価値観を根底から否定してくれます。
蟻は正しく、夏の間、遊んでいたキリギリスは罰が当たるべき
という僕の思い込みがあったようです。
“我慢して、コツコツと頑張れば必ず報われる”
“我慢しないで、楽しんだ者には罰が当たる”
そんな物語を自分自身に与えていました。
そして、それが日々強化されていくと…
“遊んではいけない、遊ぶと罰があたる”
“我慢しなさい、我慢しないと幸せになれない”
という物語になってしまうかもしれません。
何が、正しい、間違っているということではなく、どういう解釈、どういう世界観が
自分にとってふさわしいかは、今ここからでも変えられるということです。
なので、夏の間、コツコツと働くことが好きな蟻たちは自分の得意なことをし、冬場は休み、キリギリスも勇気を出して自分の才能を信頼し、自分の好きなことをして、冬に娯楽の少ない蟻たちに音楽を提供していた…。
両者はお互いの長所を認め合い、仲良く暮らしたのでした。
と新しい物語を自分の教訓にすることにしました。
楽しむことにブレーキを踏む癖がある僕は、
「蟻とキリギリス」のような寓話に代表される価値観を通して、
何かを守っていたのかもしれません。
その何かとは…
それは、両親の価値観、祖父母の価値観かもしれません。
先祖代々の価値観を僕は無意識に守ってきたのかもしれません。
がしかし、それが自分にふさわしいか否かを判断し、
自分にふさわしい価値観を再度、手にすることも出来ます。
蟻とキリギリスのどちらも幸せである…
そんな世界を選択していきたい
そういうパートナーシップを実現させていきたい
と思う潤治なのでした。
コメント
美枝子さま
コメントありがとうございます。
蟻が正しく、キリギリスには罰が当たる…という解釈は
一般的だと思いますが、それをそのまま自分の観念にする必要は
ないんだなと思いました。
無防備に身につけてしまっている観念は少なくないように思います。
鵜呑みにせずに、人間呑みしていきたいです。
では、また。
潤治さま☆
いつもながら、素敵な記事をありがとうございます^^
蟻とキリギリスの解釈について、私も全く潤治さんと同じ考えで!
寛子さんのような解釈があるとは、思ってもいませんでした・・・
でも、寛子さんの解釈を改めて考えてみると、そんな展開もありそうですよね~♪
子供の頃に聞いたお話に、随分と固定観念を持っていたのだな!と、気付きました。
ありがとうございました~^^v