先日、娘の小葉がスキーキャンプに行っていました。
小葉が通っている「バディスポーツ幼児園」では、冬期のスキーキャンプは全員参加です。
しかも2泊3日という親元から離れてのキャンプです。
3、4歳児(年少)が2泊…とか、去年は2,3歳児(年少々)でしたから、
今年、彼女に「パパは小葉と別れて眠るのは寂しいよ。」
「大丈夫、天使が傍にいるでしょう?」
昨年、セミジュニア(年少々)から1年、全く違う人になったかのように、
いつか子離れすることはできるのだろうか…と。
僕たちは全くの依存状態で生まれてきます。
誰かの手を借りないと、
生まれたばかりの子が、「僕は誰の手も借りない、オムツはどこ?
その依存状態がやがてゆっくりと心身の成熟とともに自立した状態にな
その過程で、「依存」
その投影は人それぞれで、その家庭環境や親の価値観などからの影響もあります。
依存することを過大視して、
また、依存状態が完結しない幼少期に、親を助けないといけない!と思って、
依存することは悪いことのように親のピリピリ・イライラした自立状態から思
甘えると親が迷惑な顔をする
甘えるなと言われる
ひとりでできることを強制される
親が頼りなく、何とかしなくっちゃと思う
などなど、親が持つ「甘えることへのジャッジメント(批評、批判)」
先日も、「パパがママに怒ったりするのは、
「パパは上手に甘えることができなくてね、『甘えたい』
甘えたいという氣持ちを抑えこんで大人になったので、その表現が「怒ること」「面倒をかけること」「相手を傷つけること(そして許しを期待すること)などであることも少なくありません。ずいぶんと改善されましたが、甘えることに投影したジャッジメントは少なくないようです。
甘えることへの罪悪感や後ろめたさはどこで身につけたのだろうと
結局、甘えられない自分に苛立ち、
「人の迷惑になるでしょ?」
「いつまでも甘えてないで、自分でやりなさい。」
「自分でできることは他人に頼まない!」
「甘えてんじゃないよ!」という言葉は今でも胸が締め付けられるような氣持ちがします。
それらの言葉を言われ続けて、すっかり「甘えること」
ひとりで頑張ってきた感のあるアースエンジェルの中にもそういっ
「甘えたい」という氣持ちを、
その氣持ちをいろいろな手段で叶えようと大人は思うわけです。
たくさんのモノを持っても渇き続け…
たくさんの人からの賞賛を得ても満たされず…
社会的に認められる存在、有名になっても心は空洞で…
むやみやたらと自分を傷つけて同情を得ようとしても混乱し、
味覚で「甘さ」を感じるために砂糖づけになって健康を害し、
…代償行為は、結局高くつくものだと僕自身は思います。
本当に愛する人との「愛し愛される状態」のひとつは幼少期にあり、
さて、
いつもはママやパパにべったりな小葉も、
僕も自分の中にある「依存心」と上手に付き合っていますが、
僕自身、等身大で生きている、みたいな氣持ちですが、
その怖れや痛み、哀しみはずっと昔に持ったものでしょう。
僕は僕自身の「依存心」とどう付き合っていこう?
「依存心」
日々、問いかけ続けています。