先日、娘の小葉が溶連菌感染症になりました。
我が家はほとんど医者にかかることがありません。
代替医療の追究が僕たち夫婦が知り合うきっかけにもなっているからでしょうか。
僕たちの周りには、心理療法、自然療法、アロマテラピー、オステオパシー、ホメオパシー、など西洋医学の補完的な役割をすると言われる療法を取り入れている人たちが多く、中には西洋医学を薬物療法として毛嫌いする人もいます。
僕はどうかというと、「理由はわからないけどなんか嫌」という、薄弱な根拠も持たない西洋医学に関して思考停止な男でした。
思考停止でいることは、平常時は良いのですが、ギリギリの状態や追い詰められる状況になると「テンパる」「パニクる」「ヒステリー」になります。
結局、寛子の冷静な対応で小児科に連れて行くことになりました。
溶連菌感染症は昔の法定伝染病でもあった「しょうこう熱」が現代の経済状況・栄養状態の向上によって症状が軽くなっていったことで、名称が変わったものです。
抗生物質を飲み、一時は落ち着いた小葉でしたが、数日後、身体中に発疹ができ、顔まで真っ赤になりました。
そうなると、もう、夫婦で原因探し、犯人捜しが始まってしまうこともあります。
「だから、医者は信用ならない!」
「医者の言うとおりにしておけばいい!」
「素人の判断は危険だ!」
「こんなに苦しんでいるんだから、医者に連れて行くしかない!」
「いったいどうすればいいんだ?」
西洋医学をありのままに観ることができずに、期待と絶望、善悪などの二元論を絡めて、過大視したり、敵視したり、過剰に反応している自分に氣付かされます。
子どものかかる病気の多くは自然に治ります。
ですから、周りの大人が「高熱で苦しんでいる子どもの姿」に取り乱さずに落ち着いて、じっくりと待っていられるかが試されるわけです。
大切な娘が苦しんでいる姿は、親の無価値感を刺激します。
そして、何もできない自分を恥じ、罪悪感まで味わうこともあります。
そして、何かできるのではないか?と策を講じさせる方向に情報も先導するかもしれません。
子どもの自然治癒力を二の次に、先回りしてしまうことが簡単です。
抗生物質もあり、予防投与も視野に入れることもあるかもしれません。
それほど、親の心配や不安を払拭するような医療が求められた結果でしょうか。
数日、子どもが病で苦しむ姿は親には苦痛かもしれません。
ただ、その姿を傍で見ているだけですから。
子どもの病気に関して治療法の方向性は、僕たち夫婦のパートナーシップが試されました。
ありがたいことに、さまざまな知識のおかげで迷いが生じます。
それと共に不安も生じます。
誰かにその判断を外注したいわけです。
親としての責任を過大視してしまっているからです。
第三者に判断をゆだねることで、その判断に関わる夫婦間のすりあわせ、議論もせずにいられるかもしれません。
それはとっても楽なことですが、ふたりが成長する機会を失います。
娘の病気という機会で、僕たち夫婦は少し成長したように思います。
少なくても、小児科に関する本を読みまくり、少しでも取り乱すことなく、娘の治癒行為に寄り添おうと僕自身がなりました。
西洋医学に関して思考停止な男から、西洋医学はひとつの選択肢でもあるけれども、子どもの治癒行為を邪魔せずにいられるくらいのゆとりを持った男になれそうです。