他人を強迫しなくても手に入る愛を信じられないとしたら

潤治の徒然草虐待

じわじわとお申込が増えている「人生の呪縛シリーズあなたの『○○』を外すメールリーディング」。
今のところ、「罪悪感」「執着」「強迫」とテーマが追加されています。

「強迫」などと聞くと怖ろしい氣がしますが、誰もがしていることと僕自身は思います。

承認欲求の亜種ではないかと自分自身を振り返って思います。

つまり、自分のことを認めて欲しい、分かって欲しいという欲求が素直に出せない状態と言えるでしょうか。
子どもの癇癪や地団駄はよく見かけますよね?あの感じが大人になると「強迫」になるわけです。

手に入れたい関心、存在承認、承認欲求のために僕たち大人はそれまでに獲得してきた方法でそれらを得ようとするわけです。

  • 不機嫌になって周りの人にプレッシャーをかけたことはありますか
  • 危険人物を氣取って周りの人をコントロールしようとしたことは?
  • ほんの些細なことでパートナーに文句(いちゃもん)を言ってみたことはありますか?
  • 二者択一の問いを相手に投げかけて、どっち?と追い込んだことは?
  • 自分の正当性を誇示して、相手を論破したことはありますか?
  • 世直しと思い、「間違っている」人を糾弾したり、注意したことはありますか?
  • 意味のない試練を相手に与えて、愛を確かめようとしたことはありますか?
  • 分かっちゃいるけど止められない、そのようなことを自分に課していじめ続けていることありませんか
  • 自分に対する思考の文章が「ねばならない」「しないと」「何でそんなこともできない」などではありませんか?

などなど、これらは自他を強迫し続けてた僕の、僕による、僕のため問いかけをご紹介いたしました。

いつの間にか、獲得してきた愛情確認がゆがんでいることは多々あります(け?)。
不機嫌になると周りが氣を使ってくれる、パートナーに文句を言うと謝ってくれる、自分の正しさを証明できたように思え誇らしげだ、相手の愛を確認するために必要な踏み絵にほくほく、自分を虐待していると何かしらの言い訳が立つ、などなど、ゆがんだ愛情確認、承認欲求は少なからずあります。

その人その人の人生の物語が見え隠れするところに「慈しみ」を感じますが、いかがでしょう?

僕たちはこの世に生まれ出で、無条件の愛情と思っていたものがいつからか条件付きであるように思い込みます。何かしないと自己の存在承認を見失うわけです。

「何かしないと…!」がそのまま他人に対しても「強迫」として出てきます。
「○○しないと、あなた○○になっちゃうよ!」というところでしょうか。
そして、出した言葉は自分に帰ってきます…。思考はどの文章を繰り返し繰り返し再生します。

メディアでも感情マーケティングでは、この「強迫」を使います。

「あなた、今のままで大丈夫?」
「そんな時に安心の○○!」
みんな使っているよ!!」
「今ならお買い得、オペレーターを増やして対応しています。残り数分。」

という感じでしょうか。

誰かを脅したり、試したりしなくても、僕たちは愛される存在であることを感じて生きるほうが人生はその彩りを鮮やかに見せてくれると僕自身は思います。

それが遠い過去生に起因する考え方、ものの見方ったとしたら、1度観てみることのも良いかと思います。

人生の呪縛シリーズはいつでも氣になるテーマでお申し込みくださいね。

次回の新月でのテーマ追加は「裁き」です。
なぜ、自分や他人を世界を裁かなければいけないのでしょうか?

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