自分自身にアサーティブでいられるか自問するAQUA MIXT 潤治です。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます。
※過去のブログ記事 「アサーティブネス」シリーズはこちら
昨日はアサーティブネスな自分だったなぁと過去の実績にすがり今日、この瞬間「自分でいること」を我慢したり、遠慮したりする自分が首をもたげてきます。
踊り場で足を停めがちな自分なので、自問する習慣はいつも持ちたいと思います。
自分自身であろうとする気持ちと世の中の風潮や情報になびく気持ちと相容れない自分が心に同時に存在するところに人間としての学びがあるのだろうと思います。
今日の記事は自分の中にある定型文の意味を今一度考えるということをテーマにしたいと思います。
定型文とは何か?
多くの人の観念が集まり、ある程度の意図を持って生まれた言葉と言えるでしょうか。
いつの間にか僕たちはこれを常識、共通観念として受け容れてしまっていますが、
それを汚染と感じられるかどうかで人生が変わっていくように思います。
心理学の交流分析でいうところの「汚染」です。
その汚染された言葉に傷つくこともあります。
例えば、「結婚は墓場だ」という言葉は異性と親密になり、
人生を共にすることに対する怖れを助長するかもしれません。
「夜はおばけがでるよ」という子どもの頃に信じていた自分が悲しいです。
その言葉がどういう意図を持っているのか?
どういう動機から発せられた言葉なのか?
その言葉に傷つくとしたら、自分の何が反応しているのか?
どういう動機から発せられた言葉なのか?
その言葉に傷つくとしたら、自分の何が反応しているのか?
定型文は僕たちの思考にするりと入り込み、
インパクトが大きいものほど強く刻まれます。
子どもの頃に上級生の子が言っていた「片親の子どもは幸せになれない」という言葉は、
いつの間にか僕の心に定型文として居座り続けました。
少し間抜けな定型文もあります。
高校生の時、同級生が言っていた「文化祭の後に告白すると成功率が上がる」という言葉も、
僕の無意味な行動に走らせました。自分の気持ちよりも成功率に心が傾きました。
行動に駆り立ててしまう定型文もあり、罪悪感や劣等感を生ませる定型文も世の中には、
当たり前のようにあり続けます。
そして、その言葉を自分の言葉のように人に言ってみたり、浴びせてみたり、
僕たちは一面、愚かです。
その定型文は本当のことなのでしょうか?
その言葉がどういう意図を持っているのか?
どういう動機から発せられた言葉なのか?
その言葉に傷つくとしたら、自分の何が反応しているのか?
どういう動機から発せられた言葉なのか?
その言葉に傷つくとしたら、自分の何が反応しているのか?
騙された・傷ついた・裏切られたと思いたい自分の弱さがあると僕自身思います。
自己憐憫は蜜の味でしょうか。
同じように騙したい・傷つけたい・裏切りたいと思う自分の弱さも僕にはあります。
その自分を知り、どう向きあうかで他人とのコミュニケーションは変わっていきます。
ありのままの自分を認めるということでしょうか。
世の中には何が正解かという「正解探しの風潮」があります。
それは人を傷つけてしまうことが多々あると思います。
あたかも正解のふりをした定型文は常識として固定される怖れがあります。
汚染されていると気づかずにその定型文を信じて生きるということです。
僕たち夫婦はベジタリアンなので、その分野に置いても定型文を投げかけてくる人はいます。
その人の言葉というよりも、その人にするりと入り込んだ言葉が漏れてきたという感じですね。
「タンパク質はお肉から摂るものだ」
「牛乳からカルシウムは摂るものだ」
「ベジタリアンは食事を制限している」
「何かと面倒なことが多いはず」
「ベジタリアンは動物愛護の立場だ」
などでしょうか。
これらは本当にその人が、もしくは僕が思っていることでしょうか?
世論や常識、偏見などがいつの間にか心に定型文として入り込んだだけかもしれません。
その言葉がどういう意図を持っているのか?
どういう動機から発せられた言葉なのか?
その言葉に傷つくとしたら、自分の何が反応しているのか?
どういう動機から発せられた言葉なのか?
その言葉に傷つくとしたら、自分の何が反応しているのか?
今は少なくなりましたが、定型文にイラッとすることもありました。
怒りで隠してしまえば良いですが、傷つくこともありました。
攻撃と認識して迎撃することもありました。(→未熟な僕)
世の中には定型文、たくさんありますね。
でも多くの反響をいただきました。
「赤ちゃんのことを考えたら、絶対布おむつ」
「経皮毒のことを考えたら、絶対布おむつ」
紙おむつはあくまでも親の都合であると思います。
この文章すら、定型文かもしれません。
親の都合って何でしょうか?
その都合を優先することで何を得ようとしているのでしょうか?
子どもに対するゆとり、家庭の穏やかさ、などかもしれません。
定型文は僕たちの人生において細かく観ていく必要があります。
すべてが僕たちにあてはまることはないし、
そして、その定型文に傷つくこともないわけです。
紙おむつを使う一抹の後ろめたさを持っている人が
布おむつを使う人の一抹のストレスからの定型文が発せられたりもするでしょう。
「経皮毒のことを知って、そんな危険なものを赤ちゃんに使っているの?」
独身であることに一抹の不安を持っている人に、
結婚生活に一抹の不自由さを持っている人からの定型文もあるでしょう。
「結婚してこそ、一人前だよ。」
ベジタリアンであろうと少しの我慢をしている人に、
食生活に一抹の不安を持っている人からの定型文があるかもしれません。
「我慢してまで健康になりたくないよね。」
「食べたいものを食べることが一番幸せだよね。」
その根底にあるべきものは、自分の選択に対する信頼です。
定型文がふわりと蔓延るのは自己信頼の問題が表出しているだけだと思います。
「お風呂上がりには、冷えたビールでしょ?」
この定型文に傷つく人はいないと思います。
自己信頼への不安や怖れがひょっとしたら、
人を傷つける定型文を作っているかもしれません。
その言葉がどういう意図を持っているのか?
どういう動機から発せられた言葉なのか?
その言葉に傷つくとしたら、自分の何が反応しているのか?
どういう動機から発せられた言葉なのか?
その言葉に傷つくとしたら、自分の何が反応しているのか?
定型文が人を傷つける時、
それは「批評、非難、正論、正当性を声高に叫ぶ、常識という偏見の集まり」を
隠れ蓑に行われることもあるかもしれませんね。
紙おつむと布おむつもそのひとつだし、
「既婚・独身」「ベジタリアン・ノンベジタリアン」「スマホ・ガラケー」
「キャリア・ノンキャリア」「氷水かぶる・かぶらない」
「スピリチュアル・ノンスピリチュアル」(このノンをつけるあたりも意味はなく…)
…などなど、周りには比較させてお互いを傷つけ合うシステムが多いように思います。
自分の選択に責任や信頼をする強さや穏やかさ、
お互いを受け容れるゆとりがないほど忙しい時代なのかもしれません。
「自分でいること」=アサーティブネス
は、ゆとりや自己信頼を育んでいく姿勢でもあります。
多様性を信頼する強さは自己信頼からやってくるように思います。
「自分自身の思想を信じ、自分にとっての真実であるものを信じ、
自分の心で万人の真実を信じるものが天才である。」
―ラルフ・ワルド・エマーソン
自分の心で万人の真実を信じるものが天才である。」
―ラルフ・ワルド・エマーソン
アサーティブネスとは自己受容を限りなくしていく作業です。
自己受容は他己受容に繋がっていきます。
詳しくはAQUA MIXT ライフパーパス個人レッスンにて。
アースエンジェルレッスン4「アサーティブネス」
担当: 水本潤治&水本寛子
日時: 2014年11月3日(月・祝)13時~15時(開場12時50分~)
場所: 聖ヶ丘セラピールーム(東京都多摩市)
定員: 8名(内Skype枠 3名まで
特典:期間中アースエンジェルじっくりリーディングを受けられた方は
日時: 2014年11月3日(月・祝)13時~15時(開場12時50分~)
場所: 聖ヶ丘セラピールーム(東京都多摩市)
定員: 8名(内Skype枠 3名まで
特典:期間中アースエンジェルじっくりリーディングを受けられた方は
1回2,000円割引