マスターは東儀 宗介(とうぎ そうすけ)、かつて天使だった頃の名は、メネフィール (Menephiel)。
仕事帰りや週末に通う常連OKは、小鳥遊 紬(たかなし つむぎ)、28歳。中堅デザイン事務所のグラフィックデザイナー。
秋分を過ぎた平日の夜、『刻詠珈琲店』は温かなオレンジ色の照明に包まれていた。日中の残暑はまだ感じられるものの、夜風には秋の気配が混じり始めている。店内では暖炉のそばでゆったりと読書にふける女性客と、カウンター席で一人静かにエスプレッソを味わう半袖シャツ姿の男性が、それぞれの時間を過ごしている。
刻詠珈琲店のドアが勢いよく開いた。
「宗介さん!もう限界です!カードが何を言ってるのか、さっぱり分からないんです!」
仕事帰りの紬が、疲れた顔でカウンターに倒れ込むように座る。
宗介は黙って、いつものブレンドを淹れ始めた。
「今日、嫌なことがあって家でカードを引いたんです。きれいな女神様のカードが出たから期待したのに、説明書には『自分を愛しましょう』とか『内なる声に耳を傾けて』とか…。具体的にどうすればいいのか全然分からなくて、余計モヤモヤしちゃって」
温かいカップがそっと差し出される。
紬は両手で包み込むようにして、ゆっくりと香りを吸い込んだ。
「…その『分からない』という感覚は、実はとても健全ですよ。」
宗介が静かに口を開く。生豆を焙煎する手は止めない。
「オラクルカードの言葉は、高いところから街を見下ろしているようなものです。全体の流れは見えるけれど、一軒一軒の家の中までは見えない。カードは大きな方向性を示しているのです。」
「でも、私が知りたいのは、まさにその『家の中』なんです。」
紬の言葉に、宗介は小さく頷いた。
「そうですね。『自分を愛しましょう』というメッセージが出たとする。これは答えではなく、問いかけです。『なぜ今、自分を大切にできていないのか』『何が自分を苦しめているのか』という問いを、カードはあなたに投げかけていますね。」
「え?答えじゃなくて、問いかけ?」
驚く紬に、宗介は優しく続ける。
「カードは鏡のようなもので、紬さんの心を映し出しす。答えはカードの中にはない。紬さん自身の中にある。だから『このメッセージは今の私に何を気づかせようとしているのか』と自問することが、リーディングの本質なんです。」
紬はコーヒーを一口飲んで、考え込む。
「じゃあ、分からないときは…?」
「素直にそれを受け入れればいい。そして『なぜこのカードが出たんだろう』と考えてみる。それでも分からなければ、別のカードを引いてもいい。カードは何度でも、違う角度からヒントをくれますから。」
宗介の言葉には、不思議な説得力がある。
「たとえばね、船のコンパスは方角を示すけれど、船を動かすのは船長。カードも同じ。方向は示すけれど、歩むのは紬さん自身。だから焦らなくていいんですよ。」
「なるほど…。今まで、カードに完璧な答えを求めすぎていたのかもしれません」
「カードとの関係は、長い対話のようなものですから。一度で全部理解しようとしなくて大丈夫ですよ。『今日はどんな自分と向き合おうかな』という気持ちで、楽しみながら探求していけばいいんだと思います。」
紬の表情が少しずつ明るくなる。
「分からないことを、分からないって認めることから始めればいいんですね。」
「そう。それが一番大切な第一歩。」
宗介のその言葉に、紬は深く頷いた。
カップの中のコーヒーが、今日は不思議と甘く感じられた。