マスターは東儀 宗介(とうぎ そうすけ)、かつて天使だった頃の名は、メネフィール (Menephiel)。
仕事帰りや週末に通う常連OKは、小鳥遊 紬(たかなし つむぎ)、28歳。中堅デザイン事務所のグラフィックデザイナー。
夜風が心地よい平日の夜、『刻詠珈琲店』には仕事帰りの常連客がぽつりぽつりと訪れていた。
店内の照明は少し落とされ、キャンドルの炎が壁の古い写真を柔らかく照らしている。
紬は仕事の疲れを癒すように、深いため息をつきながら扉を開けた。
宗介はエスプレッソマシンの手入れをしていたが、紬の気配を感じて振り返った。
「今週もお疲れさまでした。」
「ああ、宗介さん……今日はもうヘトヘトです。」
紬はカウンター席にどっと座り込んだ。いつものオラクルカードは持っているが、今日は少し元気がない様子だ。
「今日は何にしましょう?」
「温かくて、甘いものをお願いしてもいいですか?」
宗介は黙ってキャラメルラテの準備を始めた。甘いシロップの香りが、疲れた紬の心を少しずつ和らげていく。
「宗介さん、実はカードのことで聞きたいことがあるんです。」
紬はカードの箱を取り出しながら言った。
「ネットで調べてたら『カードに自分のエネルギーをプログラミングする』って書いてあったんですけど、なんだか難しそうで。」
「プログラミング?」宗介は繰り返した。
「どんな風に書かれていましたか?」
「えーっと…。」紬は記憶を辿りながら話した。
「『カードに自分の波動を記憶させることで、より正確なリーディングができる』とか、
『カードとの絆を深める重要な儀式』とか、でも、具体的にどうやるのかがよく分からなくて…。」
宗介は紬の前にキャラメルラテを置いた。表面にはハートマークではなく、小さな星が描かれている。
「なるほど。では、まず『プログラミング』という言葉について考えてみましょうか。」
「はい。」
「コンピューターのプログラミングと同じで、カードに『こういう風に働いてください』という指示を与えることと言えそうですね。」
紬は興味深そうにラテの星をスプーンでそっと撫でた。
「指示って、例えばどんな?」
「例えば…、」宗介は静かに説明を始めた。
「『わたしが本当に必要としているメッセージを教えてください』とか、『わたしの最善の道を示してください』といった願いを、カードに込めることですね。」
「ああ、そういうことですか。」紬の表情が明るくなった。
「てっきり、もっと複雑な儀式みたいなものかと思ってました。」
「確かに、複雑な方法を紹介している本やサイトもありますね。」宗介は微笑んだ。
「でも、実際はもっとシンプルなものです。」
紬はカードの箱を両手で包みながら聞いていた。
「じゃあ、どうやってプログラミングすればいいんですか?」
「一番簡単な方法は…。」宗介は店の奥から小さなクッションを持ってきた。
「まず、静かな場所でカードを膝の上に置きます。」
紬は言われた通り、カードを膝の上に乗せた。
「そう、そして、目を閉じて、深呼吸をしてください。三回ほど。」
紬は素直に目を閉じ、ゆっくりと深呼吸を始めた。疲れていた体が、少しずつリラックスしていくのが分かる。
「良いですね。そのまま、カードに手を添えて、心の中で話しかけてみてください。」
「話しかける……どんな風に?」
「『これから、わたしと一緒に歩んでくれることに感謝しています』『わたしが迷った時、正しい方向を教えてください』そんな感じですね。」
紬は目を閉じたまま、そっとカードに手を添えた。
「心の中で話しかけるだけでいいんですか?」
「そうです。ただし、大切なのは、その時の紬さんの気持ちです。」宗介は優しく説明した。
「カードを信頼し、感謝し、これから一緒に歩んでいきたいという気持ちを込めてください。」
紬はしばらくの間、静かにカードに手を添えていた。
店内には、時計の音とコーヒーマシンの静かな音だけが響いている。
やがて目を開けた紬は、少し驚いたような表情を見せた。
「なんだか…、温かくなりました。カードが。」
「それは、紬さんの気持ちがカードに伝わっている証拠ですよ。」
「本当にこれだけでいいんですか?なんだか、もっと複雑な呪文とか、特別な道具とかが必要かと思ってました。」
宗介は首を振った。
「魔法のような儀式は必要ありません。大切なのは、紬さんの純粋な気持ちです。」
紬はカードを大切そうに胸に抱いた。
「でも、一回やったらもうおしまいですか?」
「いえ、時々繰り返してもかまいませんよ。」宗介は答えた。
「特に、カードとの関係性が変わった時や、新しいお願いをしたい時などは。」
「関係性が変わる?」
「例えば、最初は『日々のアドバイスがほしい』と思っていたけれど、今度は『将来の方向性を知りたい』と思うようになった時など、と言ったらいいでしょうか。」
紬は納得したように頷いた。
「なるほど。カードにお願いする内容が変わったら、改めてプログラミングし直すってことですね。」
「その通りです。それから…」宗介は付け加えた。「プログラミングをする時は、具体的すぎない方が良いですよ。」
「具体的すぎない?」
「例えば『今日の夕飯は何にしようか教えて』というような、あまりに日常的すぎる質問ばかりをお願いするより、『わたしにとって本当に大切なことを教えて』というような、もう少し大きな視点でのお願いの方が効果的です。」
紬は考えながらキャラメルラテを飲んだ。
「つまり、カードには人生の大きなテーマについて相談する、という設定にした方がいいってことですか?」
「そうですね。もちろん、日常的な質問をしてはいけないということではありません。でも、プログラミングの時は、より深いレベルでの繋がりを意識した方が良いです。」
宗介は店の古い棚から、一冊の手帳を取り出した。
「こちらに、何人かのお客さんがカードにお願いした言葉を書き留めてあります。参考になるかもしれません。」
紬は興味深そうに手帳を覗き込んだ。
「『わたしの魂が本当に求めているものを教えてください』『困難な時も、希望を見失わないよう導いてください』『自分らしく生きる道を示してください』…うわあ、みんな素敵なお願いをしてるんですね。」
「どれも、その方の人生に対する真摯な想いが込められています。」
紬は手帳を見ながら考えていた。
「わたしも、何かお願いの言葉を考えてみます。今すぐじゃなくても、家に帰ってからゆっくりと。」
「それが良いですね。」宗介は微笑んだ。「急ぐ必要はありません。紬さんの心に響く言葉が見つかった時に、改めてプログラミングしてください。」
紬はカードを改めて見つめながら言った。
「なんだか、カードがただの占いの道具じゃなくて、本当にパートナーみたいに思えてきました。」
「それこそが、プログラミングの真の目的です。」宗介は静かに答えた。
「カードと紬さんの間に、信頼と愛情に基づいた絆を築くこと。それができれば、きっと素晴らしいガイダンスを受け取れるようになりますよ。」
「大丈夫、紬さんなら、大丈夫です。」
「宗介さん、いつも本当にありがとうございます。」紬はあたたかい気持ちのまま、店をあとにした。
外にでると、夜風が少し涼しくなり、紬は満足そうにため息をついた。
今日の疲れが、不思議と軽くなっているような気がした。
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