掃除・洗濯・買い出し・炊事…
誰かがやってくれたら、もっと仕事ができるのに、もっと自由な時間ができるのに、もっと自分のやりたいことができるのに…
と思ったことはありますか?
朝、起きてカーテンを開け、カーテンを束ね、陽の光を部屋に入れます。
洗濯機をまわす前に、手洗いするようなものをとりわけ、手洗いしてから洗濯槽へ。
幼児園に行く娘のお弁当、朝~昼の食事の用意、下ごしらえをします。
フローリングのすぐに埃が溜まっているのを主張してくる感じにちょっと辟易しながらも、それに応えるかのようにクイックルワイパーで埃を取り去ります。
雑巾がけは手拭き…。
手で拭く方が、直接、床や壁に触れられるし、腹筋や背筋を鍛えるエクササイズも兼ねています。
ベランダの竿を拭き、手すりを拭いた頃に洗濯機が洗濯を終えたことを教えてくれます。
太陽の光が心地良く、洗濯物を干す行為を応援してくれているよう。
洗濯物は1回で終わることもあれば、シーツなどのリネン系などが追加されることもしばしば。そうすると脱水が終わる時間に家にいなければならないので、外出するときは要注意です。その注意している様子は誰に言うまでもないわけです。
玄関を見渡した時、娘の靴の汚れが気になると、太陽の光で乾かせる内に洗ってしまいたくなります。迷うよりやっちゃえと自分に言い聞かせ、歯ブラシと靴ブラシを駆使して洗い上げます。
娘を幼児園に送り届けた後に買い出し。
野菜の産直売り場とスーパーマーケットをハシゴします。
1回で済めば良いのにと思うけれど、買い物をしている時の「自分が無になる時間」が好き。
家事の中で、いくつもこの「自分が無になる時間」があり、これを「瞑想」と呼んでいます。
雑多なことを手っ取り早く片付けるという意識もあるけれども、家事のことを「神事」と意識もあり…、家事を執り行なうわけです。
ひとつひとつの動作に祈りをこめることで、細部に神は宿り、家事の大切さやそれを通して得られる精神的な成長を感じられるようになります。
大袈裟かもしれませんが、家事を通して魂を研磨するような気持ちです。
家事を効率で測るという視点を手放せるようになりました。
床は手で拭いたほうが喜ぶし、台所道具は綺麗に管理されていると喜ぶし、その道具で作られる料理の味は、美味しくなります。
料理を作るという過程も楽しくなります。
買い物で出合った野菜たちの気持ちを感じ、姿を変え、冷蔵庫から巣立っていくのを見ることは感慨深いです。
食材たち、道具たちを、料理のパートナーとして、チームワークで創りあげる料理は、とても美味しく仕上がります。
忙しくてできないこともありますが、できるだけ、そういう機会を増やしていきたいなと思います。
日常のささやかな作業を通していただける学びの多さを耳をすますことで感じることができます。
家事をはじめ、「働く」 ということは効率では測れないものがあると思います。
その行為を通じて、誰かのために、何かのために、祈りを込める作業かもしれません。
効率だけなら…
例えば、登山ならヘリコプターで頂上まで行けばいい話です。
でも、その一歩一歩頂上へ向かう道を楽しむ、その風景を楽しむことこそ、登山の醍醐味であるように、家事も結果ではなくて、そのひとつひとつの地味な作業を精神的な作業として、むしろ修行やエクササイズ、ヨーガのようなものとして取り組むことでその気高さを取り戻すように思います。
それが目には見えない価値を創造するでしょうし、それを家族は深いところで感じてくれるはずです。
そのときに理解してくれなくとも、数年後、数十年後に…。
そして、何冊もの本を読むことよりも、たくさんの叡智を受け取れるのかもしれません。
「家事」に祈りをこめることで、その価値を効率主義から解き放ち、本来の魂の研磨という価値につながると…。
そう言いながらも、ジャパネットたかたで限定数売られていたダイソンの掃除機に心躍るのでした…。
星に願いを、家事に祈りを。