心理学をいかに男女関係を構築させていくために活用できるか。
これは学生時代の僕にとって大きな研究テーマであり、「人間ってどんな生きもの?」という子どもの頃からの素朴な疑問を解消するために究めていきたいものでした(→バカ)。
「人は関心を寄せられるとその相手を嫌いにはなれない。」
という心理学の本からある法則を抜き出して、実践し続けました。
- 挨拶の前に名前をつけてする「○○さん、おはよう!」
- 授業が一緒なら、「一緒だね。」と声をかける
- 相手の好きだったものを覚えておく
- 何もないのに「大丈夫?」と声をかける
- ちょっと借りたつもりの小銭を律儀に返す
- あなたのそういうところ好きだなとつぶやく(相手に聞えたらラッキー)
- 目を見て話すが、相手が子どもの頃のイメージを思い浮かべる
- 相手の家族のテーマ、愚痴は聞き逃さない(相手のルーツだから)
などなど、それらを続けているうち、男女関係というよりも人間関係が豊かになっていきました。
相手に「関心を寄せること」と「心配すること」を履き違え始めた頃、おかしなことになり始めました。
残念ながら、相手が精神的に落ち込んでいる時は、あやまちやトラブルに発展することもありました。僕のハイド氏ははじめっから分かっていたようです。(それを望んでいたわけです。)
- 相手の依存心が怒濤のように僕に流れ込んでくる
(複数人だと身体がもたない) - 相手が幼児期の感情で接してくる
(相手の幼児期を見ていたから?) - 僕の共依存心をくすぐり、ドラマに誘い込む(当時は大歓迎…)
- 相手が信じられない狂気を見せてくる(昼ドラかもしれない)
心配はあたかも、相手のことを思ってするような価値観がありますが、僕の体験したものは、相手のパワーを奪い、お互いのエゴを増幅させ、お互いに尊厳を軽視するようなものでした。
もちろん、僕は相手の依存心を高めてコントロールしやすくしたかったわけですし、相手のパワーを奪うことで、自分の優位性を誇示したいし、より僕の好きなドラマを生きてくれる人になって欲しいわけでした。
対等な、お互いに敬意を払ったパートナーシップなど都市伝説でしたから。
つまり、「心配」は相手にかける呪いであり、僕の支配欲求でした。
「スイス人銀行家の教え」(本田健著)に登場するメンターのホフマンさんが話していた一節を思い出します。
「もし、君が誰かのことを心配になったら、自分がどうして相手にとって、重要人物になりたいのか、チェックしてみなさい。」
多くの人たちがAQUA MIXT に関わり、その人生を共有してくれます。
いつでも、関わってくれた人たちの「心配」をしそうになります。
うまくやっているかなぁ…。
楽しんでいるかなぁ…。
結局、元のもくあみ状態になっていないかな…。
変な方向に進んでいないかな…。
すべてが相手に良くなって欲しいと思いながらの、その陰にある相手に悪くなって欲しいという思いが「心配」には隠されています。
ありのままの自分の醜悪を認めつつ、氣高く相手を応援できる自分でありたいものです。
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